火垂るの墓
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文体は、関西弁の長所を生かした「饒舌体」の文体ながらも、無駄のない独特のものとなっている[7][8]

物語の構成は、冒頭にまず物語の結末部分が描かれ、駅構内で死んでいった主人公の少年の腹巻きの中から発見されたドロップ缶を駅員が放り投げると、その拍子に蓋が開いて缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、が点滅して飛び交う。そして、その骨が少年の妹の遺骨であることの説明から、カットバックで時間が神戸大空襲へ戻っていき、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる効果的な構成となっており、印象的で自然な流れとなっている[7]
作品背景神戸大空襲後の神戸市街

『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しいの思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。

野坂は幼児期に生母と死別したのち、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子となったが、前述の神戸大空襲で住んでいた家は全焼。当時14歳だった野坂は1歳の義妹とともに西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せたり、あるいはその近くのニテコ池の南側に広がる谷間に10カ所ほどあった防空壕で過ごすなどの経験を実際にしている[9][10]

ただし、「空襲で父母をなくした」は脚色であり、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は重傷を負いながらも一命を取り留めており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だった[10]

野坂は戦中から戦後にかけて2人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかし西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6カ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない[10]

野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという[11]。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[12]。こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた。「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあった[13]。「恵子」という名前を、『エロ事師たち』の主人公の義娘の名前に付けたのは、妹への思いがあったからだという[13]

野坂は妹の恵子について次のように述べている。一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。 ? 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」[10]
あらすじ

1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線(現在のJR神戸線三ノ宮駅構内で、14歳の若さで衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中にはわずか4歳で衰弱死した妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げていった。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりにがひとしきり飛び交い、やがて静まる。

太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区[注釈 2])に住んでいた清太とその妹・節子は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。

最初のうちは順調だった共同生活も戦争が進むにつれて、2人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなっていった。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し、近くの満池谷町の貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始めるが[注釈 3]配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていった。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人となった人家から火事場泥棒し、時には見つかり殴られた上に派出所に突き出されながらも飢えをしのいだ。

ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太は、病院に連れていくも医者に「滋養を付けるしかない」と言われたため、銀行から貯金を下ろして食料の調達に走る最中に日本が降伏して戦争が終わったことを知った。清太は日本が敗戦し、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされ、ショックを受けた。戦後の物不足の中、清太はやっとの思いで入手した食べ物を節子に食べさせたが既に手遅れで、節子は終戦から7日後の8月22日に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を去った。その後、清太も栄養失調に侵され、身寄りも無いため、三ノ宮駅に寝起きする戦災孤児の1人として野垂れ死に、死体は他の死亡した30人の死体と共に荼毘に付され、無縁仏として納骨堂へ収められた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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