火垂るの墓
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劇中の空襲の描写についてもリアリズム志向は徹底されており、高畑は自身が1945年6月29日の岡山大空襲を経験していたので、そのときの記憶が劇中の空襲の描写に活かされている[33][15]。ただし、焼夷弾がどのように落ちて家屋などに火が付くのかという部分は、戦争を知らない制作スタッフ陣の頭を悩ませ、戦時下の風景描写において特に苦労した部分である[15]。作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写することを求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった[34]作中に登場するB-29の1機、第500爆撃団第883飛行隊所属機「スパイン・シュー」とその搭乗員

また、神戸大空襲で神戸を焼き払ったアメリカ軍爆撃機B-29についても、空襲のシーンで登場するテールマーク「Z」のB-29はサイパン島に配置されていた第500爆撃団第883飛行隊の所属機であるが、機体番号が確認できる6機は、「41」機(愛称マイプライドアンドジョイ)、「42」機(愛称スパイン・シュー)、「44」機(愛称なし)、「47」機(愛称なし)、「50」機(愛称ファンシーディティール)、「51」機(愛称テイルウィンド)で実在の機体であった。高畑はB-29がどの方向から神戸に侵入してきたかなどを徹底的に調査してこのシーンを描かせており、実在機を描いたのにも高畑のリアリズムへの強いこだわりを感じられるが[35]、実際の史実ではこの日出撃していたのは「41」(マイプライドアンドジョイ)機、「42」(スパイン・シュー)機、「50」(ファンシーディテール)機、「51」(テイルウインド)機であり、「44」機は1944年11月29日の東京市街地への夜間空襲で、単機で東京市街地に突入したが帰路に行方不明となって、機長ハロルド・M・ハンセン少佐以下11名が戦死して以降は欠番となっており、「47」機は出撃していない。次の爆撃任務となった2日後の6月7日の大阪大空襲では「47」機も出撃している[36]。ちなみに6月5日の神戸大空襲では530機のB-29が空襲に参加したが[37]、日本陸軍航空隊飛行第111戦隊五式戦闘機13機が迎撃してB-29を5機撃墜6機撃破を報告している[38]。アメリカ軍の記録でも11機のB-29を損失し、うち3機が日本軍戦闘機により撃墜、3機が日本軍高射砲で撃墜、3機が戦闘機と高射砲協同で撃墜、1機が損傷が大きく硫黄島で墜落、1機が原因不明の損失と記録されており、飛行第111戦隊の報告と符合する[37]。この日がB-29が一回の出撃で10機以上の損失を被った最後の日となった[39]

美術監督の山本によると、空襲の後の清太と節子が避難する小学校の校庭のシーンでは、なかなか納得できるカットが描けなかった。高畑に相談すると黒田三郎の詩集『小さなユリと』を渡されて読んでみた所[注釈 9]、“どこか白昼夢を見ているようなイメージ”が湧いた。そのイメージで本作の校庭シーンを描き、地面を乳白色でパッと明るく飛ばしたものを見せると、ようやく高畑からOKをもらえた。
幽霊となった清太と節子の描写

本作はいきなり主人公の死から始まることで、観客は“本作は幸福な結末がない”ということを冒頭で知らされる。続けて、幽霊となった清太が自分の最期を眺めているという二重構造により、客観的な視点が加えられている[15]。これらの演出により、観客は自然と幽霊の清太・節子と同じ目線で本編の兄妹の運命に立ち会い、どう生きたかを客観的に見ることとなる[15]。この二重構造の演出は、高畑のアイデアによるもの[15]

美術監督を務めた山本二三によると、高畑は幽霊となった清太と節子のシーンにこだわり、脚本の段階から生前の清太と幽霊の清太は明確に書き分けられていた[15]。また、幽霊の清太と節子が三ノ宮駅から電車に乗るシーンは当初、高畑の指示で全体的にセピア色で描かれた。しかし高畑自身「いまいちイメージと合わない」と納得できず赤色に変更したところ、より強い印象を出すことができたためこの配色に決まった[15]

作中で画面が赤くなる時は、清太と節子の幽霊が登場し近くで見ており、記憶を何度も繰り返し見つめていることを意味し、阿修羅のように赤く演出されている[40][注釈 10][注釈 11][注釈 12]。ただしアニメ絵本ではこの部分は大幅に省略され、ラストで現代の神戸の街を見ている2人が赤い状態の幽霊であることを示唆する場面があるのみである。アニメ絵本は概ね映画本編を忠実になぞっているが、唐突に出てきたセリフ・行動・場面など説明がなされている。
収録現場

節子役は「節子と同年輩で関西弁の子役」という監督の要望のもと、オーディションが行われ[15]、当時5歳の白石綾乃が選ばれた。製作委員会のプロデューサーの村瀬拓男によると、白石の声の録音テープを初めて聞いた高畑は、イメージ通りの声に思わず「節子がいる!」と興奮したという[15]。起用後白石は、マネージャーから口伝えにセリフの指導を受けてから、(声の収録後に絵を完成させる)プレスコで収録を行った[41]。志乃原は白石について「本当にいい子でした」と述べている[42]。プレスコによる収録方法は、高畑の「演者の発声のタイミングやアクセント、息づかいまで絵作りに活かしたい」との思いがあった[注釈 13]

幼かった白石はセリフの意味がまだよく分からず、収録開始時はシーンやセリフ内容に関係なくとにかく元気よく発声していた[15]


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