火垂るの墓
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また、「本作は決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」とも語っていた[28]。「高畑勲・宮崎駿作品研究所」代表の叶精二によると、高畑は「この映画では戦争は止められない。映画で反戦を訴えるのであれば、“戦争を起こす前に何をすべきか”と観客に行動を促すことが必要だ」と言っていたという[15]。高畑自身はこの映画を心中物として描いており「戦争の悲惨さを出すんだったらもっと激しくやらなければおかしいんじゃないか。」と述べている[29]。ただし、反戦アニメと受け取られたことについて、高畑は「やむを得ないだろう」としている。

高畑は、「本作では兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものである」と解説し、「特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたい」と語っている[30][31]。また、「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べている[32]

美術監督の山本二三はある時、高畑に「家の中の柱の角が擦れて丸くなっている様子など、生活の感じを細部に描きたい」と提案したことがあった。しかし高畑は、厳しい口調で「この映画にヒューマニズムはありません」と却下した[15]。山本は後年、「戦時下の悲哀を描くにあたり、ここまで徹底して厳しく冷静な目線を持っていた人は高畑監督しかいません。だからこそ『火垂るの墓』は、高い芸術性を持った作品になったのだと思います」と語っている[15]

本作の製作発表で、高畑は「この物語は戦時中だけの話ではなく、現代にも続く」ということを語っていた[15]。このため本作のラストでは、幽霊の清太と節子が丘の上から現代の神戸の夜景を眺めるシーンが描かれている[15]
時代描写

本作は第2次世界大戦を扱っているが、高畑を除けば主要スタッフのほとんどが戦争を経験していない比較的若い世代である[15]。山本二三が高畑から美術監督の打診を受けた際、「当時の状況を知る戦争経験者の方がよりリアルに描けるのでは?」との理由から断ろうとした。すると高畑から「戦争を知らないからこそ、君たち若い方にやってほしいのです」と説得されたという[15]

こうして始まった本作の制作は、高畑勲のリアリズム志向により、1945年(昭和20年)当時の風景が忠実に再現された[注釈 7]。戦時下の風景をどう描写するかが製作スタッフの課題だったため、事前に原作者の野坂昭如の案内で西宮市や神戸市でロケハンが行われた[15]

また、製作スタッフたちは小津安二郎監督の映画『東京物語』や『お早よう』を見て、昭和20年頃に一般的だった狭い日本家屋の映し方やじっくり演技を見せる点などを参考にした[15]。本作の小道具には、節子が持つサクマ式ドロップスやマーマ人形[注釈 8]など実在の物が描かれている[15]

劇中の空襲の描写についてもリアリズム志向は徹底されており、高畑は自身が1945年6月29日の岡山大空襲を経験していたので、そのときの記憶が劇中の空襲の描写に活かされている[33][15]。ただし、焼夷弾がどのように落ちて家屋などに火が付くのかという部分は、戦争を知らない制作スタッフ陣の頭を悩ませ、戦時下の風景描写において特に苦労した部分である[15]。作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写することを求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった[34]作中に登場するB-29の1機、第500爆撃団第883飛行隊所属機「スパイン・シュー」とその搭乗員

また、神戸大空襲で神戸を焼き払ったアメリカ軍爆撃機B-29についても、空襲のシーンで登場するテールマーク「Z」のB-29はサイパン島に配置されていた第500爆撃団第883飛行隊の所属機であるが、機体番号が確認できる6機は、「41」機(愛称マイプライドアンドジョイ)、「42」機(愛称スパイン・シュー)、「44」機(愛称なし)、「47」機(愛称なし)、「50」機(愛称ファンシーディティール)、「51」機(愛称テイルウィンド)で実在の機体であった。高畑はB-29がどの方向から神戸に侵入してきたかなどを徹底的に調査してこのシーンを描かせており、実在機を描いたのにも高畑のリアリズムへの強いこだわりを感じられるが[35]、実際の史実ではこの日出撃していたのは「41」(マイプライドアンドジョイ)機、「42」(スパイン・シュー)機、「50」(ファンシーディテール)機、「51」(テイルウインド)機であり、「44」機は1944年11月29日の東京市街地への夜間空襲で、単機で東京市街地に突入したが帰路に行方不明となって、機長ハロルド・M・ハンセン少佐以下11名が戦死して以降は欠番となっており、「47」機は出撃していない。次の爆撃任務となった2日後の6月7日の大阪大空襲では「47」機も出撃している[36]。ちなみに6月5日の神戸大空襲では530機のB-29が空襲に参加したが[37]、日本陸軍航空隊飛行第111戦隊五式戦闘機13機が迎撃してB-29を5機撃墜6機撃破を報告している[38]


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