火垂るの墓
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高畑は、大幅なカットで破綻させることなく観客の鑑賞に堪える方法を百瀬義行とともに検討し、「『演出意図』としての必然性が感じられれば、見る人に受け入れてもらえるのではないか」という「苦肉の策」で、1988年(昭和63年)4月の公開時点では清太が野菜泥棒をして捕まる場面などを色の付かない白味[注釈 4]・線撮り[注釈 5]の状態で上映することとなった[19]。これらの箇所は公開後も制作を続け、後に差し替えられている。鈴木敏夫によると、公開が間に合わないという話になった際、高畑は同様に未完成版を公開したポール・グリモーの『王と鳥』(『やぶにらみの暴君』)のように未完成になった経緯の説明を冒頭に付けて公開する提案をして、鈴木がそれを断ると、2箇所彩色が抜けることを明かし、鈴木はその状態での公開を承諾したという[21]

わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年(平成3年)に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる(おもひでぽろぽろも本作と同じように過去の思い出しである)[22]

徳間書店社長・徳間康快の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している新潮社が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社がメディアミックスで映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、スタジオジブリは原作の出版権並びに著作権を保有しておらず、新潮社と野坂がそれぞれ保有・管理している[23][24]。そのため、ビデオやLDは徳間系列ではないパイオニアLDCから発売され、その後リリースされたDVDも、ジブリ作品としては例外的にワーナーの扱いとなっていた[注釈 6]。また、2020年からNetflix(アメリカと日本を除く世界約191カ国)とワーナーメディア系のHBO Max(アメリカ)にて順次開始されたジブリ作品の定額制動画配信サービスでも当作品のみ除外となっている[24][25][26][27]
監督の意図

高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べた。また、「本作は決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」とも語っていた[28]。「高畑勲・宮崎駿作品研究所」代表の叶精二によると、高畑は「この映画では戦争は止められない。映画で反戦を訴えるのであれば、“戦争を起こす前に何をすべきか”と観客に行動を促すことが必要だ」と言っていたという[15]。高畑自身はこの映画を心中物として描いており「戦争の悲惨さを出すんだったらもっと激しくやらなければおかしいんじゃないか。」と述べている[29]。ただし、反戦アニメと受け取られたことについて、高畑は「やむを得ないだろう」としている。

高畑は、「本作では兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものである」と解説し、「特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたい」と語っている[30][31]。また、「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べている[32]

美術監督の山本二三はある時、高畑に「家の中の柱の角が擦れて丸くなっている様子など、生活の感じを細部に描きたい」と提案したことがあった。しかし高畑は、厳しい口調で「この映画にヒューマニズムはありません」と却下した[15]。山本は後年、「戦時下の悲哀を描くにあたり、ここまで徹底して厳しく冷静な目線を持っていた人は高畑監督しかいません。だからこそ『火垂るの墓』は、高い芸術性を持った作品になったのだと思います」と語っている[15]

本作の製作発表で、高畑は「この物語は戦時中だけの話ではなく、現代にも続く」ということを語っていた[15]。このため本作のラストでは、幽霊の清太と節子が丘の上から現代の神戸の夜景を眺めるシーンが描かれている[15]
時代描写

本作は第2次世界大戦を扱っているが、高畑を除けば主要スタッフのほとんどが戦争を経験していない比較的若い世代である[15]。山本二三が高畑から美術監督の打診を受けた際、「当時の状況を知る戦争経験者の方がよりリアルに描けるのでは?」との理由から断ろうとした。すると高畑から「戦争を知らないからこそ、君たち若い方にやってほしいのです」と説得されたという[15]

こうして始まった本作の制作は、高畑勲のリアリズム志向により、1945年(昭和20年)当時の風景が忠実に再現された[注釈 7]。戦時下の風景をどう描写するかが製作スタッフの課題だったため、事前に原作者の野坂昭如の案内で西宮市や神戸市でロケハンが行われた[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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