1978年(昭和53年)、瀬谷西高校の建設工事で奈良時代と思われる横穴墓が検出され、人骨が出土した。同時に盗掘のあとも見つかっている。正門から校舎に向かう道路の下部付近である。
鎌倉時代
南北を縦断する鎌倉街道(かまくら道)の上道は、当時の主要な街道の一つであり、源頼朝、日蓮、新田義貞などが通った跡が残されている。
源頼朝は、石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた後、態勢を建て直し鎌倉攻めをする前夜に、相沢の諏訪社で宿泊・夜陣を張ったという言い伝えがある。
日蓮は晩年、鎌倉を出発し中原街道を通り池上に向かう途中、妙光寺に立ち寄った。
新田義貞は、世野ヶ原(現在の瀬谷)で、20万を越える勢力の陣揃えをして鎌倉攻めの準備をした。
阿久和は鶴岡八幡宮の荘園だったという記録が残されている。八幡宮の財政が一時期悪化されたときに地頭色部氏売却されたが、徳政令によって返還された。
室町・戦国時代
応永23年(1416年)に起きた上杉禅秀の乱では、上杉・足利持仲と江戸・豊島の両軍が世谷原の戦いで戦った。主な戦場は鎌倉台(楽老峰)・中丸山で、破れた上杉軍は、鎌倉道を敗走していった。
宝徳のころ(1450年ごろ)、上杉定正の家臣、山田経光