更に1912年(明治45年)5月には、大阪商船が別府温泉の観光開発を目的として阪神・別府航路にドイツ製貨客船「紅丸」を就航させ、純粋に観光を目的とした船旅が大人気となった。1934年(昭和9年)には前述のように日本初の国立公園の一つとなる。
また戦後も、阪神・別府航路を引き継いだ関西汽船が、1960年(昭和35年)に「くれない丸」を就航、その後3,000トン級クルーズ客船が最大時6隻体制となった別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運んだ。 1987年の「総合保養地域整備法」制定に伴う日本列島のリゾート開発ラッシュは瀬戸内海も例外とせず、沿岸にゴルフ場やマリーナが次々に建設された。しかし、こうした乱開発は、瀬戸内海の歴史的な景観を破壊するものでもあった。また、バブル崩壊後はこれらリゾート開発は中断され、開発中途で放棄された土地も発生した。 1996年には広島市の原爆ドームと廿日市市の厳島神社がユネスコの世界遺産に登録された。また1999年に本四架橋が全て完成すると、尾道・今治ルートは「しまなみ海道」と名付けられ、観光ルートとして注目を浴びるようになった。2016年には、瀬戸内海地域の観光地経営を行うせとうち観光推進機構が発足した。 古来より海運が盛んで沿岸地域に大きな港湾の多い瀬戸内海には重要な航路が多い。日本の総面積の12%にあたる4万7千km2におよぶ瀬戸内海沿岸地域には日本の総人口の約4分の1の3千万人が住んでおり、重工業、石油化学産業などが多く立地している。全国に占める製造品出荷額は鉄鋼業46%、石油化学産業40%、化学工業35%、パルプ・紙産業30%と工業化が進んでいる地域であるが、これら第二次産業の総生産額に対する比率は年々減少している。比率がもっとも高かったのは1970年で42.6%であったが、2002年には25.4%まで下がった。農林・水産業など第一次産業は、1965年には7.4%であったが、2002年には0.8%となっている。比率が増加しているのは、運輸・通信、卸・小売、金融・保険業、サービス業などの第三次産業で、1965年には52.6%であったが、2002年には73.8%となっている。人口の密集度や産業の多さから古代より海運が発達していた。漁業も盛んであったが、2000年代は1980年代に比較して漁獲量(重量)は約35%減少した[80]。
バブル経済と乱開発
現在の瀬戸内海観光
産業
瀬戸内海は重要な水路として海運や漁業で多くの船舶が運行しており、近年はレジャーボートの数も増し、多島部や狭い水域では海難事故も多発している[81]。
漁業
江戸以前の漁業一本釣り漁で栄えた沖家室島
瀬戸内海は縄文時代から今日に至るまで、多様な漁業の場となってきた。弥生時代には既にタコツボによるタコ漁が行われていたことも、出土物によって明らかになっている。
江戸時代には肥料に用いるイワシを獲る地引き網や船引き網漁が盛んとなった。またイカやアナゴ、キス、エビ、ナマコなどを狙う手繰網漁、現在も鞆の浦で行われている鯛網漁、帆走しながら網を引く打瀬網漁など、様々な網漁が行われていた。これらの漁法は瀬戸内海にとどまらず、房総半島などにも伝播した。また瀬戸内海の内部でも、紀州で考案されたイワシの船引き網漁法が真鍋島、宇和島、安芸草津など各地に伝播したことが知られている。
大物を狙う一本釣り漁も江戸時代に発達した漁法である。これは主に潮流の早い瀬戸を中心に行われた漁法で、鯛、ハマチ、カレイ、サワラなどを対象とした。