瀬島龍三
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大本営陸軍参謀兼聯合艦隊参謀兼中部太平洋方面艦隊参謀であった[9])が戦死すると[9]、その後任に瀬島が選ばれ[10]、同年2月に連合艦隊参謀を兼務した[8]。同年3月、同期一選抜の一人として中佐に進級した[8]菊水作戦(同年4月 - 6月)に際し、南九州に出張月末まで、連合艦隊参謀として同僚である千早正隆海兵58期)と共に本土決戦準備のため日本各地を調査した。特に、高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。瀬島は、迫水久常鈴木貫太郎内閣内閣書記官長)と親戚(「岡田啓介#人脈」を参照)であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦局の実情を訴えたという[11]

1945年(昭和20年)7月1日[3]関東軍参謀に補され[8]、満州へ赴任[3]。なお、前任者は皇族である竹田宮恒徳王陸軍中佐であった。同年8月15日の日本の降伏後の8月19日、ジャリコーウォでソ連軍と停戦交渉を行う[12]。日本側の参加者は、関東軍総参謀長秦彦三郎中将(陸士24期)、作戦主任瀬島中佐、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥第一極東方面軍司令官キリル・メレツコフ元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった[12]

このとき瀬島は軍使として同地を訪れたため、内地に帰還することは可能であったが、同年9月5日、関東軍総司令官山田乙三大将(陸士14期)や総参謀長秦彦三郎中将らとともに捕虜となった。この交渉の際、日本人労力提供について密約が交わされたという説が刊行されたが、瀬島は否定している[12]
シベリア抑留

その後、瀬島はソ連ハバロフスクの第45特別地区(将校収容所)に送られた[13]。この後、11年間抑留されることとなる。このとき本来捕虜(但し、ジュネーブ条約において。ソ連はジュネーブ条約には加盟していなかったので、捕虜とするには議論の余地あり。)としての労働の義務のない将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。瀬島は高橋ブリガードに配属されたが、特別の技術もなく何回か肺炎を患って体が衰弱していたので、外での労働は無理と判断され、班長の高橋重隆の配慮で左官の仕事が宛がわれた。後にこのときのことを諧謔として「佐官左官になった」と述懐している[14]。抑留中は陸軍将校のため、日本国内では公職追放となった[15]
東京裁判証人として出廷

この間、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳中将(20期首席、関東軍鉄道司令官)・松村知勝少将(33期、総参謀副長)とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極東国際軍事裁判で昭和天皇戦争責任証言するように求められる。さらにソ連側は瀬島らに自分らの主張に沿った証言をさせようと家族との面会の話を持ち出した。瀬島はこれも断ったがソ連は家族の所在を突き止め面会を強制した[16]

出廷に当たって瀬島は草場辰巳、松村知勝と供述内容について事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている[17]。裁判後シベリアに戻され1950年代後半に入るまで抑留生活を余儀なくされた。

保阪正康は、関東軍がソ連によるシベリア抑留を了承していたかどうかなど、瀬島でないと答えられない疑問について何度聞いてもほとんど答えず史実に対して不誠実であったことを指摘している[18]

1947年(昭和22年)末から1950年(昭和25年)4月までの間どこの収容所にいたかを語っておらず、モンゴルウランバートルにあった、第7006俘虜収容所に、種村佐孝(37期、大佐)、朝枝繁春(45期、中佐)、志位正二(52期、少佐)らとともに収容されていたとみられる[19]


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