?貊
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三国伽耶
42-
562百済
高句麗

新羅

南北国熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892安東都護府

668-756渤海
698
-926
後三国新羅
-935
百済

892
-936後高句麗
901
-918女真
統一
王朝高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-朝鮮民主主義
人民共和国

1948-


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中国朝鮮関係史

Portal:朝鮮

?貊(わいみゃく、わいはく、かいはく)は、朝鮮半島から満州にかけて、北西から南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である?(?とも表記される)との2種族を連称したもの。代以降の記録に?・貊の名が見えるが、漢代に入り?貊と記されるケースが増える。『漢書』食貨志では穢貊と表記される。
呼称

紀元前2世紀の朝鮮半島と満州にいた「?」「貊」は、?貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道溟州にいた「東?」は前漢代の中国東北部にいた?と同じ民族とされる。

?貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東?などと、貊と同音または近似音の貉・北發・白民などがある。史書には、夫余の出自が?とみられる記述があり、また貊を高句麗の別名または別種と記す。部類と夫余の上古音が同じ(P?wa ??a)とする説もある、の孔晁は高句麗を高夷の子孫としている。

『後漢書』では、?・沃沮・高句麗は元々朝鮮(衛氏朝鮮)の地に居たと記す。
歴史

以下は独自の国家を建国した夫余高句麗を除く、?・貊・沃沮・東?についての記述。

昭王(在位:前312 - 前279)の時代、燕は朝鮮候国と戦って西部の真番・朝鮮を奪い取り、上谷漁陽右北平遼西遼東の5郡を置き北東へ長城を築いたが、その際に近隣の貊も燕の支配下に組み込まれた。

前漢元朔元年(前128年)当時、?や沃沮は皆衛氏朝鮮に属していたが、?(?)君の南閭らは右渠に背き、28万人を率いて遼東郡に服属した。武帝はこの地を蒼海郡としたが、数年で廃止した[注釈 1]

武帝は元封3年(前108年)に朝鮮を討伐し、衛満の孫の衛右渠を殺すと、その土地を分け漢四郡真番郡臨屯郡楽浪郡玄菟郡)を置き、玄菟郡治を沃沮城に置いた。昭帝の始元5年(前82)臨屯と真番を廃止し楽浪郡玄菟郡に併せた。

紀元前75年、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・?貊は尽く楽浪の管轄へ移った。また、管轄範囲が広く遠いことから、?貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東?県,不耐県,蚕台県,華麗県,耶頭昧県,前莫県,沃沮県)に分けて治めさせ、官吏は?(東?)の民が務めた。

後漢建武6年(30年)、辺境の郡が整理され楽浪東部都尉も省かれた。その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯に封じられ、不耐、華麗、沃沮の諸県はみな侯となった。

32年、光武帝は高句驪侯を高句麗王に昇格させ、?貊は夫余国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。?貊(江原道)と沃沮(咸鏡道)は各地に首長が並立し統一国家は作らなかった。夷狄(?貊・沃沮・高句麗)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたが、不耐の?侯だけは(晋の官吏としての)功曹や主簿などの官員を置き、今(晋代)も続いている。この不耐侯国の官吏はすべて?人(東?人)が務めた。沃沮の村落の渠帥は、皆が古の県国制に則り三老を自称していた。

正始6年(245年)、楽浪太守劉茂帯方太守の弓遵は、領内の東?が後漢末から高句麗に従属していたため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。8年(247年)、魏の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐?王の位が授けられた。?王は一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所へ朝謁する。楽浪と帯方の二郡に軍征や特別の徴税があるときには、?人(東?)にも税や夫役が割り当てられ普通の住民のように待遇される。

中国吉林省通化市にある通化市博物館は、中国殷王朝出身で箕子朝鮮を建国した箕子を?貊の始祖として描写している[1]
遺構

夫余となる集団が、松花江上流の弱水(奄利大水、現拉林河)を渡河して南へ移り建国する以前の、史書に名前が見える「?城」(慶華古城、周囲約800m、前漢初期以前の築城、黒龍江省浜県)が発見されている。付近の吉林省にある西団山一帯からは、周代から漢代の時代とみられる遺跡が多数発掘されているが、この文化の担い手が?貊系部族だったとされ、少数の青銅器、紋様の無い陶器、多数の農具や武器とみられる磨製石器などが出土している。

特徴的な点として、食器として用いられた陶器の形状「寸胴な底が深めの作り、尖った足(三足が多い)、壷の横にある耳状の装飾もしくは取手」、住居の多くが長方形をした半地下式な点、石棺に埋葬され男女それぞれ特徴的(斧・矢尻、織具・小刀)な副葬品が納められている点などがある。

また『三国志』及び『晋書』にも夫余の「?城」の記載があり、これも吉林省の東団山一帯から周囲2`の?城とみられる城が発掘されている。
習俗

東?では山や川が重視され各々に境界があって、妄りに他所の山や川へ侵入しない。病死者が出ると、旧い家屋を棄て新居を造り直す。

沃沮の邑落に君王は居らず、長帥がいる。東?に大君長はなく、漢代以来、候、邑君、三老が下戸(平民)を統治している。

東?の言葉や風俗は大抵高句麗と同じであるが、衣服は異なる。上衣は男女共に曲領(まるくび)であり、男子は幅数寸の銀製の花文様を結びつける。沃沮の言語・飲食・住居・衣服は高句麗と似ているが、言語は時にやや異なる。

東?の邑落の間で侵犯が起きると、罰として奴隷や牛馬を取り立てる。この制度を「責過」と呼ぶ。人を殺した者は死をもって罪を償わされる。略奪や泥棒は少ない。

沃沮の土地は肥沃で田には五穀がよく実り、また毛皮・布・魚・塩が採れる。高句麗では「貊弓」と呼ばれる好弓を産出する。東?では、麻の栽培や養蚕によって麻布・綿布を織り、「楽浪の檀弓」と呼ばれる弓を産する。

沃沮では死者のために10余丈の棺を作り、土葬した後に骨のみを棺へ納める。一家は皆1つの棺に納められる。
地図

左は紀元前1世紀頃の?と貊の位置。右は2世紀頃の?貊の位置。


脚注[脚注の使い方]
注釈^ 前126年、蒼海郡への道路建設で人々から反対運動が起こり廃止した。(『史記』平準書・同公孫弘列伝、『漢書』武帝紀・同食貨志第四下)

出典^ 兪碩在 (2022年1月3日). “中国、古朝鮮・高句麗の遺跡を「満州族の文化」と歪曲”. 朝鮮日報. ⇒オリジナルの2022年1月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220102222131/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/01/03/2022010380001.html 

参考資料

『逸周書』

陳寿三国志』魏書巻三十

范曄後漢書』東夷列伝第七十五


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