潮騒_(小説)
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作品舞台三島が滞在した当時の漁業組合長・寺田邸 伊良湖岬から望む神島

1951年(昭和26年)12月から1952年(昭和27年)5月にかけ初の世界旅行を経験した三島由紀夫は(詳細はアポロの杯を参照)、その後〈ギリシア熱〉が最高に達し、『ダフニスとクロエ』のプロットを生かした小説を書くことを考え、古代ギリシアと類縁のある〈日本の素朴な村落共同体の生活感覚や倫理観〉、〈宗教感覚〉や、〈ギリシアの神々のイメージ〉と重なる〈日本の神々〉を背景として描ける場所を求めた[3]

三島は水産庁に依頼し、〈都会の影響を少しも受けてゐず、風光明媚で、経済的にもやや富裕な漁村〉を探してもらい、金華山沖の某島と三重県神島(かみしま)を紹介された[12][3]。そこで三島は万葉集の〈歌枕のゆたかな地方〉で、〈古典文学の名どころ〉に近い神島を選んだ[3][13]。早速現地に行って確かめた三島は、バーパチンコ屋もなく〈都会文明から隔絶〉した素朴な島をすぐに気に入り、漁業組合長の寺田宗一の家に滞在し世話になることになった[3][14]。神島を舞台に選んだ理由を三島は、「日本で唯一パチンコ店がない島だったから」と、大蔵省同期の長岡實にも語ったという[15]

三島が元にした万葉集に歌われている伊良湖岬には、「潮騒」(万葉仮名では「潮左為」となる)という言葉が出てくる[16]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「潮騒(しほさゐ)に 伊良虞(いらご)の島辺(しまへ) 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」—柿本人麻呂

この歌は、持統天皇伊勢神宮参拝と舟遊びを兼ねて伊勢に旅した時に、都(飛鳥浄御原宮)に残った柿本人麻呂が、お供をした人々の中の女官の1人を想って詠んだ一首で、「伊良虞」は、伊良湖岬もしくは神島のことである[16]。現代訳は以下の意味になる[16]。「潮流がざわめく今ごろ、伊良虞の島のあたりを漕ぎ舟に、愛しい人も乗っているのだろうか、あの波の荒い島のまわりを」[16]

1953年(昭和28年)3月と、8月から9月に、三島は取材のため鳥羽港から神島を訪れ、八代神社、神島灯台、観的哨、島民の生活、例祭神事、漁港、歴史、海女や漁船員の仕事や生活、台風などについてつぶさに観察してノートを取った[13][3][17]。この島は海の幸に恵まれて豊かであるが、やはり海を相手にした仕事には、勇気も要り、悲劇も生ずる。シングの「海へ騎りゆく者(英語版)」のやうに、一家から若い死者を何人も出した不幸な母も多い。男は成人すると、たちまち海へ出てゆき、沿海漁業遠洋漁業に従事し、女は一旦島を離れて行儀見習に出るか、あるひは海女になるかが、この島の永年のしきたりであった。 ? 三島由紀夫「『潮騒』執筆のころ」[3]
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