ボケ・ツッコミが固定したコンビを仮定した場合、ツッコミが進行するコンビ、ボケが進行するコンビ、ボケ・ツッコミ双方が進行するコンビの3種が考えうる。 前田勇 現代の漫才を大きく二つに分けた場合、「しゃべくり漫才」と「コント漫才」に分かれる。 しゃべくり漫才とは、日常の雑談や時事を題材に掛け合いのみで笑わせる漫才を指す。創始者は、横山エンタツ・花菱アチャコ。1980年代の漫才ブーム以降、上述の音曲漫才や歌謡漫才は急速に廃れ、しゃべくり漫才が漫才の王道・正統派とされるようになった。しゃべくり漫才の定義について、ナイツの塙宣之は「キッチリ定義することは難しいが、あえて言うならば、しゃべくり漫才とは日常会話だと思います」と語っている[19]。 コント漫才とは、「お前コンビニの店員やって、俺は客やるから」とコントに入っていくパターンの漫才を指す。衣装や小道具、効果音を使わずに、立位置もそのままで設定した役になりきるという点でコントとは異なる。設定を振ってコントに切り替えることを、符牒でコントインと呼ぶ。センターマイクから離れることも多いため、しゃべくり漫才と比べて邪道とされることもある[注 2]。 近年では「俺コンビニ店員するから、お前はそこで見てて」というように、ボケが独自の世界観に没入し、ツッコミはその邪魔にならないように外から指摘するコント漫才も増えている。 平安時代以来祭礼における派遣(予祝芸能)や家々を回る門付の芸能であった萬歳は、18世紀前半の上方で小屋掛けの芸として演じられるようになり[20]、18世紀末(天明期)には生國魂神社や八坂神社に常設の小屋が開設されるに至った。この小屋芸としての萬歳は宮中における奉納などのための形式(御殿萬歳・宮中萬歳)とは異なり、2人組による滑稽な会話による笑芸で、大阪俄の前座における軽口(かるくち。掛け合い、掛け合い噺とも)と重なりがあった[21]。 この萬歳小屋は、その軽口や、落語の台頭のために廃れた[20]が、幕末期になり、萬歳は新たな寄席芸として息を吹き返す。これは尾張萬歳や三河萬歳の影響を直接的に受けた「三曲萬歳(さんぎょくまんざい)」と呼ばれる形式で、胡弓・鼓・三味線という3種の楽器を持った多数の萬歳師が、小咄の掛け合い、言葉遊び、数え歌などの合間に、音曲でにぎやかにはやし立てるものである。ひとつの流れを持った会話劇というよりは、現代における大喜利に似たものであった[22]。この三曲萬歳はほとんど必ず「アイナラエ」という合いの手を入れる『奥田節
漫才のスタイル
音曲漫才
俗曲漫才俗曲(民謡、俗謡)の類を主とするもの。三人奴などが該当する[9]。
語りもの漫才浄瑠璃、浪曲、琵琶語りの類を主とするもの。昭和中期における浪曲漫才の諸グループ(玉川カルテット、宮川左近ショーなど)が該当する[10]。
歌謡漫才流行歌・歌謡曲の類を主とするもの。かしまし娘、暁伸・ミスハワイ、タイヘイトリオ、フラワーショウなどや、音楽ショウと総称された諸グループ(あきれたぼういず、小島宏之とダイナブラザーズ、あひる艦隊、横山ホットブラザーズなど)が該当する[11]。
曲弾き漫才楽器の曲芸的演奏を主とするもの。市川福治・かな江、桜津多子・桜山梅夫、都上英二・東喜美江などが該当する[12]。
踊り漫才本格的舞踊を滑稽にくずして見せるもの。砂川捨丸・中村春代の捨丸による「舞い込み」や、松葉家奴・喜久奴の奴による「魚釣り」などが該当する[13]。
しぐさ漫才
寸劇漫才舞台劇、劇映画などの断片を模写するもの。砂川捨丸・中村春代による『金色夜叉』、チャンバラトリオによる一連のパロディなどが該当する[14]。
身振り漫才身振り、表情を主とするもの。吉田茂・東みつ子の茂による「かぼちゃ」などが該当する[15]。
仮装漫才仮装を見せるもの。コントのように役柄を演じるためではなく、仮装それ自体で笑いを誘うことを旨とする。松葉家奴・喜久奴の奴が和服の裏地に「火の用心」などの言葉を染め抜いておき、タイミングよく観客に示すギャグなどが該当[16]。
しゃべくり漫才
掛け合い漫才掛け合いでしゃべるもの[17]。並木一路・内海突破、夢路いとし・喜味こいしが該当。
ぼやき漫才1人がしゃべり続け、相方は相槌を打つだけのもの。本質的には漫談である。都家文雄によって創始され、弟子の人生幸朗・生恵幸子や東文章・こま代に受け継がれた。このほか、西川のりお・上方よしおなどが該当する[18]。
しゃべくり漫才・コント漫才
歴史
萬歳から万才へ正月の祝賀会で萬歳を披露する2人組を描いた19世紀の日本画(作者不明)。「萬歳#歴史」も参照
なお明治初期に成立した、浪曲師と曲師の2人1組による演芸形式である浪曲も、萬歳や軽口と相互に影響し合った。このように「2人組以上を基本とした滑稽な音曲としゃべくり」による演芸形式が上方で定着していく。
明治末期、河内音頭・江州音頭などの音頭取り芸人であった玉子屋円辰が、これまでの興行萬歳よりも音楽性の強い、歌舞音曲の合間に滑稽なしゃべくりを挟む、という形式で人気をとり、萬歳との差別化を強調するため看板などに「万才(まんざい)」の表記を用いた[24]。円辰の人気を受け、音頭取りや俄の芸人が多く万才に転じたほか、「女道楽」などの音曲師がこれまでの芸を変えずに「万才」を標榜した[25]ことで、万才の持つスタイルに多様性が生まれた。この時期の形式を昭和中期まで伝えたコンビに砂川捨丸・中村春代がいる。なお、この時期を含め、長らく上方の寄席演芸は落語が中心であり、万才師の多くは端席と呼ばれる廉価な寄席にしか出演機会がなく、またそのような寄席でも、音頭、浪曲、義太夫などの主要プログラムに対し、添え物的な立場に置かれていた。
東京では、上方出身の日本チャップリン・梅廼家ウグイスが1917年(大正6年)に初めて万才を演じた同年に、東京出身の玉子屋円太郎・玉奴(のちの荒川清丸・玉奴)がデビューしている。なお、香盤表やプログラムでは「万才」ではなく「掛け合い」と表記されていたという[26]。
「しゃべくり漫才」の誕生左が花菱アチャコ、右が横山エンタツ