東京では、上方出身の日本チャップリン・梅廼家ウグイスが1917年(大正6年)に初めて万才を演じた同年に、東京出身の玉子屋円太郎・玉奴(のちの荒川清丸・玉奴)がデビューしている。なお、香盤表やプログラムでは「万才」ではなく「掛け合い」と表記されていたという[26]。
「しゃべくり漫才」の誕生左が花菱アチャコ、右が横山エンタツ
本来の立ち位置とは逆である。
1930年(昭和5年)、吉本興行部(吉本興業の前身)所属のコンビ「横山エンタツ・花菱アチャコ」が、従来和装であった萬歳師・万才師と異なり、背広を身に着け、長らく萬歳・万才の音曲の「つなぎ」扱いであったしゃべくりだけで高座をつとめる、画期的な「しゃべくり漫才」スタイルを創始し、絶大な人気を博した[27]。しゃべくり漫才はこれまでの萬歳・万才よりも多く笑いを企図したことが特徴で、エンタツ・アチャコ以降、彼らに追随する多くのコンビが結成されたほか、ラジオ放送のコンテンツとして全国的な認知を得て、多くのスター漫才師が生まれた。発表の場の増加と広がりに合わせ、秋田實など、専業の漫才作家が活動を開始するようになった。やがて漫才は主に「しゃべくり漫才」を指す語となり、これまでの漫才は少数派となり、「音曲漫才」というレトロニムと化した。
同時期の東京では、柳家金語楼がエンタツ・アチャコに触発されて、弟子の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。両者はのちにリーガル千太・万吉を名乗り、1935年(昭和10年)には他の約80組のコンビとともに「帝都漫才組合」を設立した。その後、並木一路・内海突破、夢路いとし・喜味こいしの台頭があった。
第二次世界大戦終結後、漫才師の何人かが戦死・病死・消息不明に見舞われたり、劇場やプロダクションの運営が停止したりする(例として、吉本は映画館運営会社へ一時転身した)など、演芸のための人的・物的リソースが不足する中、松鶴家団之助による自主マネージメント会社「団之助芸能社」の立ち上げや、秋田實による若手の研究会「MZ研進会」発足など、漫才の復興に向けた動きがなされた。やがて演芸プロダクションや劇場運営会社が次々と再興し、多くの芸人がいずれかに所属するようになる。 民間放送の開始やテレビ放送の隆盛にともない、上方・東京双方で多くの漫才師がテレビ番組を通じて芸を披露し、人気スターとなった[28]。また、1966年(昭和41年)の「上方漫才大賞」を皮切りに、放送局主催による漫才コンクールの創設が相次いだ。1980年(昭和55年)に相次いで開始された、東西の若手漫才師を紹介する全国ネットのテレビ番組『激突!漫才新幹線』(関西テレビ製作・フジテレビ系列)および『THE MANZAI』(フジテレビ系列)が当時の若者を中心に話題を呼び、「漫才ブーム」と呼ばれる社会現象となった。それぞれの番組に出演した漫才師たちは人気タレントとなり、司会者、歌手、俳優などとしても第一線で活動した。 2001年(平成13年)、島田紳助(元・島田紳助・松本竜介)の発案により、漫才コンテスト『M-1グランプリ』が創設され、初代チャンピオンには中川家が選出された。賞金1000万円、決勝が全国ネットのゴールデンタイムで放送されるなど、前例のない大規模なコンテストであり、2021年大会で優勝した錦鯉は翌年1000万円以上の月収を得るまでになる[29]等、影響力も大きい。寄席でやる漫才は時間が10分から15分程度であるが、M-1グランプリ決勝戦のネタ時間は4分程度と定められている。この「4分」というのは、漫才をする時間として特殊であり[30]、ナイツの塙宣之は、M-1の漫才と寄席の漫才は、100m走と10000m走くらいの差があるとして[31]、「M-1グランプリは漫才日本一を決めると謳いつつ、でも実際は漫才という競技の中の100m走の日本一を決める大会なのです」と語っている[32]。 2020年(令和2年)、西川きよし(元横山やすし・西川きよし)が漫才師初の文化功労者に選出された[33]。 前述のとおり、現代の呼称である「漫才」に至るまでは、「萬歳」「万才」の表記が基本的に昭和初期まで用いられた。1933年(昭和8年)1月、吉本興業に新設された宣伝部が発行した『吉本演藝通信』の中で、萬歳・万才の宣伝媒体や劇場の看板等における表記を「漫才」と改称することが宣言され、これまでの萬歳・万才との違いを強調した。
漫才ブーム
M-1グランプリ
呼称・表記の変化について
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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