漢の国号は皇帝であった劉氏の姓と密接に結びつき、前漢・後漢の両漢王朝以後も劉姓の王朝によってたびたび使われた。劉姓の王朝において「漢」を号しなかったものは、匈奴系の夏と南朝の宋のみであるが、逆に劉姓以外の王朝が漢を号したことは幾度かある。 戦国時代、この地を支配した秦は漢江の上流域に漢中郡を置いた(「?中」は河川流域の盆地をいう命名法)。秦が滅ぼされると、咸陽攻略の功労者劉邦が漢中・巴・蜀の地に王として封ぜられ、漢王(「漢中王」の意)を名乗った。 「漢土」の語は、古写経本や僧侶の書簡などにみえ、これよりかつての日本では中国の地を指す名詞として用いられていたとされる。同様な言葉に「秦」「唐(もろこし)」がある。(南北朝期からモンゴル時代にかけて、華北(黄河流域)と華中(長江流域)を区別し、前者のみをさす用法もあった)
蜀漢(三国時代の王朝、中山靖王劉勝あるいは斉武王劉?の後裔と称した劉備が建国)
前趙(漢趙国・劉趙)[3](匈奴屠各種攣?部の王朝)
成漢(成蜀・前蜀)(チベット系?族の李特の政権)
後漢 (五代)(テュルク系突厥沙陀部の劉知遠の王朝)
北漢(五代の後漢系の王朝)
南漢(五代十国のひとつ。広州周辺を領土とする。アラブ系説あり[4][5])
漢(中国南北朝末の宇宙大将軍侯景の王朝。わずか5ヶ月で滅ぶ)
漢(中唐の朱の政権。はじめは秦と称した)
漢(元末の陳友諒の政権)
漢(明中期の劉通の政権)
「漢」名の由来
漢中(郡名・国名)
漢王朝に由来する諸名称
中国の地を意味する「漢」
民族名・文化名としての「漢」などの特定文化をさす「漢」は漢王朝の名に由来している。(漢王朝の時代に古代中国文化が完成したため、崇拝をこめて漢王朝が回顧されることが中国では一般的である)(南北朝期からモンゴル時代にかけて、華北(黄河流域)住民と華中(長江流域)住民を区別し、前者のみをさす用法もあった)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 西方の世界へは「秦」の名が伝わり用いられた。
出典^ Taagepera, Rein (1979). “Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D.”. Social Science History 3 (3/4): 115?138. doi:10.1017/S014555320002294X
^ Nishijima (1986), pp. 595?596.
^ 三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』東方書店、2002年6月、60頁。
^ 藤田豊八「 ⇒南漢劉氏の祖先につきて」『東洋学報 6(2)』、東洋文庫、1916年5月、247-257頁。
^ 陳寅恪 (1939年). “劉復愚遺文中年月及其不祀祖問題”
典拠管理データベース: 国立図書館
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