宋の神宗の元祐年間になると漢詩が流行し、江西派と南渡派が出現したが、詩よりも詞が流行した[1]。李中主と李後主によって開かれた文運を受けて、北宋では晏殊、欧陽脩、黄庭堅、蘇東坡などが出現し、南宋では詞に散文的要素が加わり、辛稼軒などの通俗派の詞が生じた[1]。
明の時代に入ると、高啓などの北郭の十子、唐粛らの会稽の二粛、趙介など南園の五子、林鴻らの十子、前七子・後七子などが出て、復古主義を主張した[1]。特に、王世貞の復古的作風は文壇の主流となった[1]。
清の時代に入ると、江左の三家(銭謙益・呉偉業・襲鼎孳)に続いて、神韻派(王漁洋)、浙西派、格調派(沈徳潜)、性霊派(袁随園)の詩人が登場した[1]。
現代中国でも漢詩人は少なからずおり、魯迅、毛沢東等、日本の市販の漢詩集にも採られている詩人は多い[要出典]。 古体詩唐以前に作られた漢詩の全てと唐以後に作られた古い形式の漢詩で、明確な定型がなく句法
形式
近体詩唐以後に定められた新しいスタイルに則って詠まれた漢詩で、句法や平仄、韻律(平水韻)に厳格なルールが存在する。
句数・1句の字数から五言絶句・七言絶句・五言律詩・七言律詩・五言排律・七言排律に分類される。
各国の漢詩
日本「漢文学」も参照
漢詩は中国文学の中で生まれたが、中華文明の伝来に伴い日本でも作られるようになった。
751年には日本におけるごく初期の漢詩集として『懐風藻』が編纂された。9世紀には、814年『凌雲集』818年『文華秀麗集』827年『経国集』と三つの勅撰集が編まれた。その後905年に『古今和歌集』が編纂されるまで、和歌は日本文学の中で漢詩と対等な位置を得られなかった。平安時代の物語などでは、「詩」と単に書けば漢詩を意味し「からうた」と訓まれた。その後も漢詩文の影響は強く『和漢朗詠集』にも数多く作品が収められており、白居易は特に好まれた。平安期の代表詩人には、空海、島田忠臣、菅原道真らがいる。
その後、鎌倉室町期には、禅林に「五山文学」が花開いた。代表詩人には義堂周信、絶海中津があり、一休宗純には『狂雲集』がある。
日本漢詩の頂点は、江戸期から明治初期にかけての時期であり、朱子学を背景に「文人」と呼ばれる詩人たちを多く輩出した。江戸前期の石川丈山、元政(日政)らの後、江戸中期には荻生徂徠の門人たちが派手な唐詩風で活躍し、江戸後期には菅茶山らの落ち着いた宋詩風が愛された。また、頼山陽の詩は今日も広く詩吟として愛吟されている。幕末には島津久光や伊達宗賢などが名人として知られている。20世紀以降は急速に衰退したが、大正天皇や夏目漱石、森?外、中島敦ら漢学教育を受けた文化人は漢詩をたしなんだ。
現在でも自作の漢詩集を著している陳舜臣等、漢詩創作の愛好家は存在しており、月刊誌大法輪では読者の投稿した漢詩が毎号掲載されている。また、自らは創らないのものの、書道の世界において漢詩は、「読むもの」または「見るもの」として、基礎的な教養の一部となっている。また、学校教育でも、漢詩にふれることが多い。
ただし、明治期以降に日本で創作された漢詩は、中国語での発音を考慮していないため、韻律が本場中国の基準からすると破格であり[注 1]、漢詩として評価されないものが多いと言われる。これは、江戸期以前、漢詩を学ぶということは、当然に漢字毎の音韻を学び、漢詩の平仄にあった作詩をすることであったのに対して[注 2]、明治期以降の日本の漢文学習では、日常の使用と無関係になった音韻の学習が軽視され、訓読が重視されたことが原因である。しかしながら夏目漱石の漢文は中国語で吟じられても美しいとされ、それを録音したCDが販売された事もある。 朝鮮、ベトナム(越南)でも、日本同様中華文明の伝来と共に漢詩が作られた。しかし近代に至り、朝鮮、ベトナムで漢字が廃止されたため、一般民衆への漢字の浸透が弱まり、漢詩文学の伝統は大きな危機にさらされている。
韓国、越南(ベトナム)