中国は現在でも古代と同様に、個人の証に合わせて処方を調整する煎じ薬で飲むことが多い。これに対し、日本では逆にエキスの錠剤が多い。日本の漢方薬は持ち運びなどの利便性がいい反面、処方調整が難しいという面がある。一方、中国の漢方薬は服用にあたっての利便性においては劣るが、薬用効果が極めて高い[6]。中国系の漢方は一般的に精油成分が粉末にする際に蒸発しやすく[7]、また液体状態で服用した方が消化器にて吸収しやすいことから、煎じ薬の方がエキス錠より効き目が早く、そして強いとされる。
日本「一般用漢方製剤承認基準」も参照
日本への中国医学伝来は5?6世紀ごろといわれている[5]。日本では中国医学の吸収が続いた一方で、江戸時代中ごろ、中国医学の考え方に批判的な一派が起こった。これは現在「古方派」と呼ばれている[5]。ただし江戸時代、日本の医学が全て古方派になったわけではなく、例えば多紀元胤(1789-1827)は、1819年に『難経疏証』を著している[8]。江戸時代にはオランダを通じて体系の全く異なる西洋医学が伝来し「蘭方」と呼ばれるようになり、伝統医学のほうは「漢方」と呼ばれるようになった[5]。
現代では医薬品医療機器等法が施行されたことなどから漢方薬の成分分析が進んだため、日本では、中国には無い組み合わせの処方が行われるようになっている。ただし、例として日本の大手メーカーであるツムラでも、原料である生薬の8割を中国から輸入している[9]。また明治時代の西洋化により、漢方医学や漢方薬は一時排斥された。1895年に開かれた第8回帝国議会では『漢医継続願い』が否決され[10]、漢方医学は存続の危機に瀕することになる。
1967年(昭和42年)、武見太郎(日本医師会会長)の尽力により、漢方薬は健康保険の適用対象となる薬価に70種類の漢方薬を大臣告示で薬価基準に収載させた[11][12]。ただし、新薬で行われる通常の臨床評価試験を経ず、文献上の資料のみを元にして収録されたため、今後の効用再評価が求められる。 大韓民国では、漢方ではなく「韓方」「韓薬」の呼称が一般的である。これは韓国においても、李氏朝鮮時代の医師、許浚の『東医宝鑑』(1613年)等で漢方医学が独自に体系づけられたからである。同国では韓方医を育成する韓医学部が大学に置かれ、韓方医院は地方でもごく普通に存在する。 欧米では一般に漢方薬は疑似科学とみなされ、作用機序に欠ける迷信の類と考えられている[13]。また、漢方に関する現行の各種の研究も、作用機序が存在するという前提に立ったバイアスに満ちたものとして否定される傾向にある。漢方薬を医薬費として販売するため臨床試験を進めている企業も存在するが、2012年現在、FDAの認可を果たした事例は存在しない[14]。 人が生薬を使い始めたときは1種類(いわゆる単味)の生薬を用いていた[15]。これらは例えば柴胡は熱を下げる、杏仁は咳を止めるといった簡単な知識の集積となった[15]。しかし、漢書『芸文志』ですでに指摘されているように、病気は、季節、気候、風土、体質などの遺伝的要因の影響を受け、他の病と併発するなど複雑化することもある[15]。そこで2種類以上の生薬を組み合わせて用いられるようになった[15]。2つ以上の生薬の組み合わせを薬対という[16]。薬対は任意の生薬の組み合わせではなく、歴代の医薬専門家によって蓄積された臨床的治療効果の知識に基づく基本単位である[16]。 漢方薬は一般的に複数の生薬をあらかじめ組み合わせた方剤をさす。この方剤により、効能が大きく変わる。甘草湯(かんぞうとう)のように甘草だけの方剤もあるが、これは希な例外である。 また漢方薬は東洋医学の理論に基づき処方されるのに対し、民間薬は経験的な民間伝承によるものである点で両者は異なるとされる[17]。民間薬は多くの場合が単一の薬草で原料生薬の配合比率が厳格に決まっているわけではない[5]。その効果は漢方薬においては比較的に限定的正確に働くのに対し、民間薬の効果は全般的で漠然と働くものが多いとされる[17]。 「漢方薬=生薬」という解釈をしている人も多いが、上記からわかるように、これは誤解である。日常的に、「漢方薬ではない生薬」の例は非常に多い。ゲンノショウコやセンブリ、ドクダミなどを煎じて、症状の詳細も体質も考慮せずにただ飲むだけであれば、それを漢方(薬)と呼ぶことは決してできない[注釈 1]。 なお、日本の漢方薬では、似て非なる生薬がしばしば混同されていることがある[要出典]。
朝鮮
欧米
生薬・民間薬と漢方薬桂枝加芍薬湯エキス剤