漢方医学
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16世紀以降、西洋医学が日本に導入されて南蛮医学、紅毛医学と呼ばれたが、江戸中期には西洋医学をオランダ人がほぼ独占するようになり、「蘭方」または「洋方」と称されたことに対して、中国伝統医学に由来し日本で実践されていた医学を「漢方」と呼ぶようになった[1][2]

19世紀中盤の幕末から国学漢学を尊皇的に「皇漢学」と言う。

19世紀後半の明治14年ころから「和漢学」と称されたが、それに伴い日本の漢方も「皇漢医学」、「和漢医学」と呼ばれた。日清戦争以降、西洋と対になる東洋という用語が定着した。

本来漢方医学では生薬製剤による薬物治療の他、鍼灸、按摩、温泉など種々の治療法が用いられた。現代日本の医師法に於いて医師が鍼灸按摩をすることは可能だが、鍼灸あん摩マッサージに関する法律が別に存在することから、これらの治療法は主にあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師が行うことが多い。

20世紀後半、日本はようやく漢方薬についての規制がまとまった。1950年(昭和25年)に日本東洋医学会が設立されて、「東洋医学」という呼び方で「日本の漢方医学、中国の中医薬学、朝鮮の韓医学」を一括するのが一般的だった。漢方薬の一部は1976年(昭和51年)から正式な保険薬として収載されており、現在では漢方薬を使った治療が広く行われている[3]。なお現在の日本では同一の漢方処方が医療用医薬品としても一般医薬品としても使用販売されており、一般医薬品としての漢方薬は第2類医薬品に分類されている。
歴史

5・6世紀に中国から日本に中国医学が伝来したといわれる[4]。現存する日本最古の医学書は984年に丹波康頼が朝廷に献上した医心方だが、この本は唐代の医学書を膨大に引用している。その後も我が国の医学は、に留学した僧医などによって、の医学が紹介されるなど基本的に中国医学の導入を元に展開した(後世派[5]。後世派の巨頭は ⇒曲直瀬道三(1507-1595)である。彼は田代三喜に医学を学び、また明に留学した僧侶策彦周良から最新の明医学を学んだ。彼は京都に啓廸院と言う医学校を開き、そこで学んだ医師達は全国に散らばった。啓廸院で用いられた処方集「啓廸院配剤百方」は現在京都大学に保管されている。彼が書いた多数の書物の中でも「察証弁治啓廸集」はもっとも有名である。「察証弁治」というのは要するに現代中医学で言う弁証論治とほぼ意味は等しい。道三の養子 ⇒曲直瀬玄朔の時代になると活字印刷の技術が普及し、より多くの医学書を入手出来る時代になった。それらの情報を得てさらに腕を上げた曲直瀬玄朔は天皇、関白から庶民に至るまで多くの人々を治療し、数百例の症例集「医学天正記」を残している。これは当時の治療の実際を知る上で重要な資料である。曲直瀬流医学は長く日本の医学の主流となったが、岡本一抱が中国医書を仮名交じり文で解説するなど、日本での応用を容易にする作業も行われた。余談ではあるがこの人物は近松門左衛門の弟である。

時代が下って1607年には林羅山が本草綱目を徳川家康に献上[6]、また将軍徳川吉宗は「増広太平恵民和剤局方」や「訂正東医宝鑑」など中国、朝鮮の医学書を官刻、1819年に多紀元胤(1789~1827)が「難経疏証」を著すなど、中国伝統医学の紹介、普及は江戸後期まで続けられてきた。実際、真柳らの研究によると、19世紀に到るまで中国医書は営々と輸入されている。したがって江戸時代に日本の医学が中国医学とまったく別のものになった、と言うことでは無い。すなわち「定義」で紹介した東京医科大学の記載にある「室町時代頃から日本独自の進化をするようになりました」というのは正しくない。室町時代はもちろん江戸末期に至るまで、日本は中国から医学情報を積極的に輸入していた。

一方、陰陽五行説の影響の大きい後世派に対し、江戸時代にはこれを批判して実証主義的な古方派が台頭し、のちに2派を統合した折衷派が生まれた[7]

古方派が主張した「古(いにしえ)」という概念は、かなり複雑な思想背景を含んでいる。なお以下の古方派に関する記述は、引用したリンクとは別に向静静著、「医学と儒学」人文書院[8]を大幅に参考している。

古方派は後藤艮山に始まると言われる。後藤艮山は「日用」を重視し、「古道」を唱えた。艮山自筆の書は現存しないが、彼の教えを弟子が記録した師説筆記、「艮山先生遺教解」などによると、彼は論語を引いて医を知れと説いている。彼は古方を伏羲神農の伝説に求めようとした。伏羲は八卦を説き、神農は薬草を民に与えたとして医薬に関連付けられてはいたが、艮山が重視したのは伏羲が料理を発明し、神農が農作を始め、五穀や野菜を人々に教えたとされたことだった。現代に於いては伏羲も神農も伝説上の神に過ぎないが、後藤艮山の真意は薬物治療よりもまず日常の食事を重んずるという事であったと考えられる。もちろん彼も薬物治療を行った。後藤艮山が使用した薬物は「艮山先生手定薬能」という書に記録されているが、そこには僅か36種が記述されているのみである。病因論としては一気留滞説を説いたが、彼の意味する気とは天地の間、人体の内にも外にもあまねく存在するものと理解されていた。すなわち艮山は古方派の祖と言われるが、彼にあっては明代までに確立していた陰陽五行などの思弁性の高い医学に異を唱え、日用に用いやすい養生・医療を提唱したのであって、彼が必ずしも傷寒論を重視したわけでは無い。彼が論語に基づいて医を説き、伝説上の存在である伏羲や神農を重んじたのは彼の時代的限界と言えるが、その精神の根本は「日用」にあったと言える。

後藤艮山を引き継いだのは香川修庵であった。香川修庵は医学を後藤艮山に習ったが、その前に伊藤仁斎に儒学を習っており、後藤艮山より儒学的色彩が濃い。彼が著した「一本堂行余医言」は高い実用性を誇るが、彼はただ実用的な医学を説いただけでは無い。伊藤仁斎に儒学を学んだ後後藤艮山に医学を学んだ経緯からも分かる通り、彼は「儒医」たることを主張した。その思想に基づいて、例えば彼は黄帝内経は孔子、孟子の教えを受けていないので邪説であると主張した。そして彼は論語や孟子の記述から病気、薬、食事、日常生活などに関わる部分を拾い上げ、これらに基づいて医療をすべしと説いたのだが、さすがに論語や孟子で実際の診療をするのは不可能であった。そこで彼が実際の治療の手本として取り上げたのが傷寒論だったのである。ただし彼が入手出来たのは、成無己の「注解傷寒論」であったとされる。本書は宋改を経た傷寒論をさらに彼が省略改変したものである。そこで香川修庵は成無己の注解傷寒論から注解と薬物の修治を全て削除し、小刻傷寒論と称して刊行、これは日本に於いてもっともよく読まれた傷寒論になった。香川修庵にはこの他にも桂枝や大黄、黄連などの再評価、行きすぎた朝鮮人参の乱用を戒めるなどの功績があるが、一方で傷寒論を考証学に基づかず「自分が使えそうな所だけ抜き出す」という日本漢方の悪弊は彼に始まったとも言える。香川修庵が傷寒論に注目したのは事実だが、彼の主張する「古」も必ずしも傷寒論をさしたのでは無く、彼の主張の根本は医は儒に基づくべきであって、従って孔孟の教えを重んじると主張はしたが、論語や孟子で実際の診療が出来るわけではなかったため、手段として用いたのが傷寒論だったのだ。

古方派に於いて香川修庵の後に出た巨頭は山脇東洋である。彼は江戸時代初めて解剖(腑分け)をしたことで有名である。山脇東洋は法眼の号を授けられ、また中御門天皇の侍医を務めるなど、後藤艮山や香川修庵とは異なる系譜の医師であった。家は曲直瀬玄朔の系統の医家であり、当初は金、元、明代医学を学んだ。しかし後になって陰陽五行などを重んじる医学に疑問を抱き、香川修庵同様「復古」を唱えた。しかし山脇東洋の復古は香川修庵のそれとは異質であった。香川修庵は復古を唱えたものの論語や孟子では実臨床が出来ないので傷寒論を参考にし、かつ「自我作古」と言った。自分で古を創るのだというのである。しかし山脇東洋はそうではなかった。彼は「述而不作」、古人の説を宣べるだけで自分の考えは作らない、と言ったのである。「唯古是好」、古のみが良いと言った。これは学問が進歩するという事を完全に否定したに等しい。彼もまた儒学者の影響を受けた。山県周南という人物を介して荻生徂徠の説を学んだ。荻生徂徠は古文辞学を唱え、後世の注によらず古語の意義を帰納的に研究し、直接古代文献を解釈すると主張したのだが、当然江戸時代の日本に生きた荻生徂徠にとってこの目的を実現するのはあまりに資料不足であった。


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