漢文
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立法委員の張曉風は手紙は相手が読んで理解できるほうが誠意があると主張した[7]

ネット上では、漢文は熱心なネットユーザーの推奨と発揚を受けており、その中でも比較的に代表性のあるものとして漢文版ウィキペディア(維基大典)等があげられる。
中国以外の諸国.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "漢文" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年4月)

日本朝鮮ベトナム及び中国などの国家民族は、漢字および漢文を取り入れて俗語の文字記録を開始した。これらの国では、はじめ漢文文明の共通体として書かれているような文法(純粋漢文)で記していたが、漢文とは全く体系の違う自国語の表記にも漢字を利用しようとした。ここで、漢文と自民族語が混交した変体漢文が生まれた。変体漢文とは規範的な漢文が何らかの理由で崩れ、変則的または破格となった漢文文体のことであり、日本や朝鮮半島などで生まれ、使用された[8]。さらに、日本・朝鮮・ベトナムではそれぞれ仮名ハングル字喃と呼ばれる自国語の新しい文字を開発し、また中国では宋代ごろから口語専用の新俗字が作られ、これらの新文字と漢字を組み合わせて自国語を表記するようになった。この段階に入った文はもはや「漢文」とは呼ばれない。
日本

日本に初めて漢文が入ってきたのが何時かと言うことをはっきり定めることは出来ない。しかし、『後漢書』には、57年の奴国が後漢光武帝に使して、光武帝により、奴国の君主が倭奴国王に冊封され金印を綬与されたという記事があり、江戸時代に発見された金印には「漢委奴国王」という漢字が刻まれていた。この記事からすると、当時の倭国の人々が全く漢文が分からなかったとは考え難い。

また、現存する日本最古の歴史書である『古事記』の応神記には、
原文
故受命以貢上人、名和邇吉師。即論語十巻、千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進。
現代語訳
百済は、応神天皇の)命令を受けて和邇吉師という名の人を奉った。そして、論語10巻・千字文1巻のあわせて11巻(の書物)をこの人に付けて献上した。

という記述があり、更に『古事記』と同時代の歴史書である『日本書紀』の応神紀の記事には、
原文
十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直岐。(中略)阿直岐亦能讀經典。即太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰、「如勝汝博士亦有耶。」對曰、「有王仁者、是秀也。」(中略)十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。
現代語訳
(応神天皇)15年(西暦284年)の8月6日、百済王が阿直岐を遣わした。阿直岐は(儒教の)経典も読むことが出来た。そこで、皇太子である菟道稚郎子の先生にした。ここにおいて、天皇は阿直岐に「お前より優れているような博士はまだいるか」と訊ねた。(阿直岐は)「王仁という者がいまして、この者は優れています」と答えた。(応神天皇)16年(西暦285年)の2月、王仁が来た。直ちに王仁を皇太子である菟道稚郎子の先生にした。(皇太子は)諸々の典籍を王仁に習い、理解しないものはなかった。

という記述がある。この2つの記事が、日本の歴史書において、文字が伝来した最初の記録である。もっとも、この記事に書かれている事件が本当に起きた訳ではない。「千字文」は、6世紀前半に作られたものであり、5世紀前後の大王であったと考えられている応神天皇が手に入れられるはずがない。まして『日本書紀』で述べられているような3世紀後半ではなおさらである。しかし、この記事が全くの作り話かというとそうではない。

まず、当時の渡来人達が様々な技術を日本に齎した事実に関しては疑いのない処であり、そうした技術を齎した人々全てが非識字者であったとは考えにくい。名前が今日伝わらなくても、文字を読解し筆記するだけの知識を有した人が日本へ移り住んだ人の中には当然に存在し、その知識が一種の技術として日本側に受け入れられていったと考えた方がより適切である。

この記事は、漢文が入ってきた頃は、渡来系の氏族が書記の任務に当たっていたということ、倭国土着の豪族たちは、渡来人たちに書記の仕事をさせていたと言うことを示しているのである。また、『日本書紀』の記事で菟道稚郎子が漢文を習ったと書かれているように、非渡来系の豪族も、渡来系氏族から漢字・漢文を学んでいったと考えられている。このような導入されたばかりの時期の漢文は、中国本土の正則漢文の文法に従い、声調なども用いた中国語の発音に従って読んでいたと考えられている。

しかし、時代が下るにつれて、日本語を記す為に漢字を用いようという動きや、外国語として漢文を読むのではなく、日本語として読めるようにしようという動きが出てきた。たとえば、春という漢字をそれまで中国語風にシュンと発音していたが、この「シュン」と意味が近いやまと言葉である「はる」と発音するようになった。[要出典]さらに漢字も、書かれている順(中国語の文法に沿った順)にではなく、日本語の文法に沿った順に読むようになっていく。

子曰、吾十有五而志於學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲不踰矩。(『論語』巻一・為政第二)

といった文章をそれまでは、中国語音で読むだけであったが、

しの いはく(のたまはく)、われ とを あまり いつつ にして まなぶに こころざす。みそぢ にして たつ。よそぢ にして まどはず。いそぢ にして あめの みことを しる。むそぢ にして みみ したがふ。ななそぢ にして こころの ほる ところに したがひて のりを こえず。

といったように、純然たるやまと言葉として読むようになった。このように、漢文を日本語ふうに読むことを訓読という。このことは、日本語を記すために漢字を用いるという動きにつながっていく。

漢文訓読体は奈良時代頃の言葉を基本にした独特の文体であり、日本語の書き言葉・話し言葉にも大きな影響を与えた。またその後長きに渡り日本の公用語として用いられ、特に上流階級知識人文化人)の教養として嗜まれ一種のステータスシンボルとしての側面を持っていた。江戸時代には武士公家の子弟は漢文の教育をうけるようになっていた。戦前の法律にも仮名交じりではあるが漢文訓読体的な文体が用いられた。

漢字を用いた日本語の記し方には大きく2つあり、漢字の音を借りて表記する方法と、漢字の意味を借りて表記する方法がある。
漢字の音を借りて表記する方法(音)
下のやまと言葉を、

やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまごもれる やまとしうるはしこのように、漢字の音を借りて表記する(万葉仮名)。

夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母礼流 夜麻登志宇流波斯(『古事記』景行記)
漢字の意味を借りて表記する方法(訓)
この方法では、純粋漢文のように書き、それをやまと言葉として読む。しかし、やまと言葉として分かりやすいように純粋漢文の文法に反する文と成ることがある。こういった文を変体漢文という。例えば、下の変体漢文を

悉言向和平山河荒神及不伏人等。(『古事記』景行記)次のように訓読する。

やまかはの あらぶるかみ および まつろはぬ ひとらを ことごとく ことむけやはす。「言向和平」といった用法は本来の漢文の文法に従えば、ありえない。しかし、「ことむけやはす」というやまと言葉を表現するために、変体漢文にしているのである。
2つの方法の併用
以上で述べた2つの用法を混用することも可能であり、これが和漢混淆体へとつながっていく。

新年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰(『万葉集』20巻)太字の部分が、訓で、それ以外のところが音で読む。

あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと

日本の高等学校などでは、漢文を日本語の古典文章語に属するものとし、漢文教育国語教育の一部分としてきた[9]。現在では、主に古代中国の古典が学習されている。高等学校学習指導要領では、1961年の改訂以降は、国語の教科のうちの古典科目(「古典」や「古典講読」など)の中で学習することとなった[注 3]。また、これまで翻訳されなかった漢籍も「外国語文献」として現代語訳が進められている。しかし、戦前に制定された法令の一部(商法など)は現在も漢文訓読調のため、法学を学ぶにあたってはそれらを理解する能力が必要であり、また、部分的な改正に際しては語調を整えるため、現代においても漢文訓読調の法文が制作される[注 4]。また、漢文訓読文は漢文に使用されている文字をなるべく維持した翻訳方法のために、漢文で書かれた史料を日本語で翻訳される際には、漢文訓読される(例「井真成墓誌」)。

1990年NHK総合テレビジョンで「漢詩紀行」という番組が始まった。


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