漢字廃止論
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幕末期には、前島密が、1866年慶応2年)12月に前島来輔という名で開成所翻訳筆記方に出仕していた際に将軍徳川慶喜漢字御廃止之議を献じた。
戦前

前島は1869年明治2年)、集議院に「国文教育之儀ニ付建議」を提出し、これに「国文教育施行ノ方法」、「廃漢字私見書」をそえて教育制度について建議したが、それらは漢字を廃して平仮名を国字とするものであった。さらに1872年(明治5年)には「学制御施行に先たち国字改良相成度卑見内申書」を岩倉右大臣大木文部卿に提出した。一方で柳川春三は布告書を仮名で発布すべきことを建白した。しかし、いずれも受け入れられることはなかった。

1872年(明治5年)、学制施行に際して、一部で日本語文字の複雑さ・不規則性が障害であるとみなされ、福澤諭吉は「文字之教(文字之教端書)」の中で漢字仮名交じりは不便であるが、漢字を全て廃止する事も不便であるといい、みだりに難しい漢字を使わずとも用は足りると説いている。また清水卯三郎は平仮名専用説を唱えた。

1881年(明治14年)秋、吉原重俊高崎正風有島武、西徳三郎その他が仮名使用運動を展開し、丸山作楽近藤真琴物集高見大槻文彦その他がこれに加わり、翌1882年(明治15年)「かなのとも」、同年夏には肥田浜五郎、丹羽雄九郎、後藤牧太小西信八、辻敬之その他が「いろはくわい」、また一方で波多野承五郎本山彦一渡辺治高橋義雄伊藤欽亮その他は「いろはぶんくわい」を設立した。かくして1882年頃には3団体が鼎立し、同年5月、「かなのとも」から機関雑誌「かなのみちびき」が発行され、仮名主義の団体を糾合し、同年7月には「かなのくわい」が組織された。

会長は有栖川宮熾仁親王をいただき、吉原重俊肥田浜五郎が副会長、高崎正風、丹羽雄九郎が幹事であった。

元々「かなのくわい」は仮名専用説を奉ずるものであるが、仮名遣いに対する見解の相違から、会は雪、月、花の3部を置き、それぞれ別に機関雑誌を発行した。こうした事情から団結力に欠けることは否めず、一部の会員はこれを憂いて3部合同を企てた。その目的は一時は達することもできたが長くは続かず、1885年(明治18年)7月歴史的仮名遣派と表音的仮名遣い派とが再び対立し、1889年・1890年(明治22・23年)頃には会はその存在意義を失っていた。

1885年(明治18年)頃、矢野文雄は「日本文体新論」で漢字節減を主張し、「三千字字引」を編纂し郵便報知新聞で発表した。

1909年(明治32年)頃、原敬三宅雄二郎巌谷季雄その他が漢字節減に関する具体的な方針を発表した。この中で三宅は7箇条を挙げた。

常に尊厳を意味し、または章句の間の重要の語たるべき漢字を存すべし

書き易き漢字を存すべし

仮名にて長くなるべき漢字を存すべし

目に慣れざる漢字を廃すべし

音の謬られ易き漢字を廃すべし

音にて区別し難き漢字を廃すべし

成るべく一字一訓にすべし

帝国教育会国語改良部は以下の方針をたてて漢字節減運動を展開したが、これらの運動はあまり反響がなかった。

漢字節減を期して国音の動詞形容詞助動詞副詞感嘆詞後置詞固有名詞、普通の外国語その他の仮名でわかる言葉には漢字を用いぬこと

字画が多く筆記に手間取り、難解な漢字を用いぬこと

字画が少なくても紛らわしい漢字を用いぬこと

仮名書きの場合より便利な漢字を用いること

略字のあるものはすべて略字を用いること

この他にも明治前期はさかんに言語改革論議が行われ、そのうちのひとつが音標文字論であった。音標文字論にはローマ字派、かな派(ひらがな派、カタカナ派)、独自の文字(新国字)によろうとする者などの意見が存在した。

1900年(明治33年)8月の小学校令施行規則で尋常小学校で教授すべき漢字は1200字以内と制限し、1904年(明治37年)に国定の「小学国語読本」が発行されると、尋常科用8冊に501字、高等科用4冊に355字、あわせて857字の漢字を教授するとした。

国語調査委員会が廃止されると時を同じくして教育調査会が設けられた。教育調査会が教育制度改善に関する調査を進めるうちに、修学年限を短縮するには、複雑不規則な国語、国文、国字の整理が不可欠であることが明らかとなった。1914年大正3年)教育調査会委員の九鬼隆一成瀬仁蔵高田早苗から、国語、国字の整理に関する建議案が調査会に提出されたが、漢字に関しては古典および趣味用として保存するものであった。これは可決された。文部省1916年(大正5年)から再度国語調査事務に着手し、1919年(大正8年)12月その成果のひとつとして「漢字整理案」を発表した。これは当時の尋常小学校各種教科書にある漢字2600余字について、字画の簡易、結体の整斉、小異の合同などを示したものである。

次に臨時国語調査会は漢字の調査に着手し、1923年(大正12年)5月、常用漢字の最小限度として1962字の標準漢字表、いわゆる常用漢字表を発表し、略字154字も併せて発表した。常用漢字表は1930年昭和5年)、一部改訂をみて1851字となった。臨時国語調査会が漢字に対してとった方針は1923年(大正12年)の常用漢字表の凡例にしめされている。

本表にない漢字は仮名で書く。

固有名詞には本表にない文字を用いても差し支えない。ただし中国以外の外国の人名地名は仮名書きとする。

代名詞、副詞、接続詞、助動詞及び助詞はなるべく仮名で書く。

外来語は仮名で書く。

この発表により社会は大いに衝撃を受け、同年7月、新聞社、雑誌出版業関係者、印刷活字方面関係者の各代表は漢字制限を促すために漢字整理期成会を設立し、常用漢字表に基づいて漢字制限運動に取り組んだ。東京、大阪の新聞社は8月、期成会の申し合わせに基づいて漢字制限に着手する旨を宣言したが、関東大震災で頓挫した。しかしその後有力新聞社は漢字制限の推進を決定し、1925年(大正14年)6月、当代新聞紙の使用漢字約6000字を約3分の1に絞り、秋から断行する旨を宣言した。用字の方針は臨時国語調査会のものとほぼ同じで、文字は常用漢字表から31字を除き、新たに179字を追加したものであった。

その他の動きとしては、1940年日本陸軍が「兵器名称用制限漢字表」を決定し、兵器の名に使える漢字を1235字に制限した。1942年には国語審議会が、各省庁および一般社会で使用する漢字の標準を示した合計2528字の「標準漢字表」を答申している[3]
戦後初期

敗戦後、国語改革による漢字廃止政策が盛り上がった。

1946年(昭和21年)4月、志賀直哉は雑誌『改造』に「国語問題」を発表し、その中で「日本語を廃止して、世界中で一番うつくしい言語であるフランス語を採用せよ」と提案した。11月12日、讀賣報知(いまの読売新聞)は「漢字を廃止せよ」との社説を掲載した。

太平洋戦争終結後、1948年昭和23年)に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQジョン・ペルゼル[4]による発案で、日本語をローマ字表記にする計画が起こされた。同年3月、連合国軍最高司令官総司令部に招かれた第一次アメリカ教育使節団が3月31日に第一次アメリカ教育使節団報告書を提出し、学校教育の漢字の弊害とローマ字の利便性を指摘した。正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示(統計処理は林知己夫が担当)、1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱね[5]、日本語のローマ字化は撤回された[6][7][8]。結局、当用漢字現代かなづかい教育漢字が制定された。


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