滝沢英輔
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「鳴滝組」のダイナモ

その後、同年は、松竹下加茂撮影所に移籍した兄の二川の林長二郎主演作『投げ節弥之助』2作の脚色をしたり、マキノのスター沢村国太郎が設立した沢村国太郎プロダクションで長谷川伸原作の『振袖勝負』、翌1932年(昭和7年)は同プロダクション製作、三村伸太郎のオリジナル脚本による『大岡政談 十三夜見物侍』を監督し、同プロダクションと提携していた、東亜キネマ等持院撮影所の継承会社東活映画社で、月形龍之介主演、長谷川原作、三村脚本の『助太刀辻講釈』を監督したが、同年10月をもって東活が解散、等持院は閉鎖となる。1933年(昭和8年)前半には、日活太秦撮影所佐々木味津三原作、山上伊太郎脚本、大河内伝次郎主演の『上州七人嵐』、八田尚之オリジナル脚本、沢村国太郎主演の『武士仁義』を撮るが、しばらく浪人の身となった。

当時の滝沢は、おなじマキノ出身の脚本家の八尋不二、三村伸太郎や監督の鈴木桃作、兄のいる松竹下加茂の脚本家の藤井滋司片岡千恵蔵プロダクションで活躍中の監督・稲垣浩らとともに、太秦地区の北側、京都市右京区鳴滝音戸山町に住んでいた。彼らはそこを近代以前の名称で「鳴滝村」と呼んでいた。あとから現れたマキノ正博の学生時代からの友人でマキノ・プロダクションの助監督だった山中貞雄とその助監督の萩原遼ともに、1934年(昭和9年)脚本家集団「鳴滝組」を結成[1][2]、共同ペンネームを「梶原金八」とした。

滝沢は1935年(昭和10年)、さっそく市川右太衛門プロダクション(右太プロ)で梶原金八オリジナル脚本で『晴れる木曾路』、新興キネマ京都撮影所で『太閤記 藤吉郎走卒の巻』、翌1936年(昭和11年)にはふたたび右太プロで『海内無双』、嵐寛寿郎プロダクションでも『宮本武蔵 地の巻』、と「鳴滝組」をもっとも活用した監督として活躍した。1937年(昭和12年)、京都「鳴滝村」を離れ、東京のP.C.L.映画製作所へ入社、フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『群盗』を下敷きにした三好十郎の『吉野の群盗』を「鳴滝組」に発注、これは山中貞雄が中心になって必死で脚本を仕上げ、滝沢監督による『戦国群盗伝』前・後篇となった[3]。同年、山中もP.C.L.に移籍、ふたりは青山に家を借りて共同生活をした。山中はここから出征し、翌1938年(昭和13年)戦死した。22作を遺した「鳴滝組」の歴史も終わった。
東宝から日活へ

同年P.C.L.は合併により東宝となり、滝沢は戦中戦後を通じて東宝スタジオの監督として活躍した。1954年(昭和29年)、日活に移籍、再開(制作部門を戦時統合で大映に吸収されていたため、撮影所を新築してのリスタートだった)第1弾『国定忠治』を監督した。1958年(昭和33年)に監督した泉鏡花の小説『高野聖』を原作とした『白夜の妖女』を第8回ベルリン国際映画祭にコンペティションに出品、金熊賞イングマール・ベルイマン監督の『野いちご』が獲得したが、滝沢の存在が国際的に知られるところとなる。

還暦を迎えた1962年(昭和37年)、井上靖原作の『しろばんば』を芦川いづみ主演で撮り、当時の「滝沢英輔になお若い青春を感ずる」と評された[1]1965年(昭和40年)11月29日、高血圧性腎炎で死去[1]。63歳没。
おもなフィルモグラフィ祈るひと』(1959年)の撮影現場
「瀧澤憲」名義

乱刀 前篇 1925年 原作・脚本 監督
二川文太郎、主演月形龍之介 ※脚本デビュー作

続乱刀 1925年 原作・脚本 監督二川文太郎、主演月形龍之介


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