なお、飛行家となってからは音楽の演奏からは身を引いたが、大正2年(1913年)には、日本にオペラを定着させるために結成された「国民歌劇会」(森?外、与謝野鉄幹・晶子などを後援者とした)に賛助員として加わっている。
年譜
1882年 (0歳) 清武誕生
1896年 (14歳) 父・清彦死去
1898年 (16歳) 学習院中等科中退、広島陸軍幼年学校入学(のち中退)
1905年 (23歳) 東京音楽学校予科入学
1906年 (24歳) エスペラントを学習[9]
1908年 (26歳) 和香子と結婚
1909年 (27歳) 長女・露子が誕生
1910年 (28歳) 和香子が結核により死亡、その後渡仏する
1911年 (29歳) ジュビシー(Juvissy)飛行機学校入学、コードロン(Caudron)飛行機学校へ移る。和香鳥号設計(製作はフランス人航空技師シャルル・ルー[10])。イシー=レ=ムリノー飛行学校へ移る[10]。
1912年 (30歳) 万国飛行免状取得、帰国、臨時軍用気球研究会御用掛。シャルル・ルーにより第4回パリ航空ショーに和香鳥号出品[10]。
1913年 (31歳) 『通俗飛行機の話』上梓、御用掛を辞め大阪住吉に転居
1914年 (32歳) 再渡仏、フランス軍に志願しポー(Pau)陸軍飛行学校入校
1915年 (33歳) アヴォール(Avor)駐在陸軍飛行学校入校、陸軍歩兵大尉任命、アヴォール飛行隊本営に移動。ブールジェ総予備隊付を経て、ランス近郊のV24中隊飛行大尉に任命。クロワードゲール勲章、レジョンドヌール勲章受勲
1916年 (34歳) N12中隊転属ののち、N26鴻中隊へ転属
1917年 (35歳) ソンム戦線に参加後、発熱により長期休養
1918年 (36歳) 守備隊のDCA442中隊へ転属。ジャンヌと再婚。終戦。綾子が誕生
1920年 (38歳) ジャンヌ、綾子と共に帰国
1921年 (39歳) 綾子が脳膜炎により死去。視察のため再度渡仏する
1922年 (40歳) 帰国。長男・清鴻が誕生
1923年 (41歳) 次男・清旭が誕生
1924年 (42歳) 戦友ドワシーを大阪で歓迎。病没
特記以外は[3]の付録による。
家族
父・滋野清彦は元長州藩士の陸軍中将。佐賀の乱・西南戦争の軍功により男爵を授かる。
姉の花子は陸軍少将・河野恒吉の妻。
妹の君子は赤坂病院院長・川上昌保の長男・淳の妻。
妹の幸子は農学者・益田律治の妻。
妹の足子は有馬組・森清右衛門の養子[11]となり、その後アメリカ帰りの実業家・葛原猪平に嫁いだ[12]。
弟の忠愨は酒井忠量(元松山藩士、東京物理学校数学教師)の養子となる。
前妻・和香子は清岡公張子爵の三女であり、長女の露子(1909年7月生)を産んだ翌年に病没。
後妻・ジャンヌ・エマール(1896-1968)はフランスで知り合った戦争未亡人で看護婦。
長男の滋野清鴻はジャンヌとの子供で、ジャック滋野の名でジャズピアニストとして活躍。三木鶏郎やジョージ川口と同じバンドで活動し、「和製カーメン・キャバレロ」の異名を持ったが、1989年に事故死した。
二男の滋野清旭もジャンヌとの子。ロジェ滋野と名乗るミュージシャンで、ジャズバンド「パップ・コーンズ」のドラマー。このバンドのリーダーにジェリー藤尾、バンジョー奏者に高木智之(後の高木ブー)、セカンドシンガーに仲本工事がいた[13]。