滋野清武
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滞仏中、戦争未亡人のフランス人ジャーヌ・エイマール(ジャンヌ、Jeanne Aimard)と恋に落ちて(入院先の看護婦とも[5]、カフェのレジ係とも[6]言われる)、1917年10月に結婚し同月病気療養のため飛行隊を離れ、モンテカルロに住んだ[7]1920年1月10日には妻を伴って帰国する。ジャンヌとの間に、ジャクリーヌ綾子(1918年 - 1921年)、滋野清鴻(ジャック清鴻、のちジャック滋野)、滋野清旭(ロジェ清旭、ドラム奏者で洋画家)の三子をもうける[8]。帰国後は空中輸送の必要性を説いて航空事業の発足に寄与したが、成果をあげないうちに肺炎腹膜炎のため死去した。享年42。夫の死後ジャンヌは日本でフランス語の家庭教師をしながら息子たちを育て、1968年に73歳で没した[6]

なお、飛行家となってからは音楽の演奏からは身を引いたが、大正2年(1913年)には、日本にオペラを定着させるために結成された「国民歌劇会」(森?外与謝野鉄幹晶子などを後援者とした)に賛助員として加わっている。
年譜

1882年 (0歳) 清武誕生

1896年 (14歳) 父・清彦死去

1898年 (16歳) 学習院中等科中退、広島陸軍幼年学校入学(のち中退)

1905年 (23歳) 東京音楽学校予科入学

1906年 (24歳) エスペラントを学習
[9]

1908年 (26歳) 和香子と結婚

1909年 (27歳) 長女・露子が誕生

1910年 (28歳) 和香子が結核により死亡、その後渡仏する

1911年 (29歳) ジュビシー(Juvissy)飛行機学校入学、コードロン(Caudron)飛行機学校へ移る。和香鳥号設計(製作はフランス人航空技師シャルル・ルー[10])。イシー=レ=ムリノー飛行学校へ移る[10]

1912年 (30歳) 万国飛行免状取得、帰国、臨時軍用気球研究会御用掛。シャルル・ルーにより第4回パリ航空ショーに和香鳥号出品[10]

1913年 (31歳) 『通俗飛行機の話』上梓、御用掛を辞め大阪住吉に転居

1914年 (32歳) 再渡仏、フランス軍に志願しポー(Pau)陸軍飛行学校入校

1915年 (33歳) アヴォール(Avor)駐在陸軍飛行学校入校、陸軍歩兵大尉任命、アヴォール飛行隊本営に移動。ブールジェ総予備隊付を経て、ランス近郊のV24中隊飛行大尉に任命。クロワードゲール勲章、レジョンドヌール勲章受勲

1916年 (34歳) N12中隊転属ののち、N26鴻中隊へ転属

1917年 (35歳) ソンム戦線に参加後、発熱により長期休養

1918年 (36歳) 守備隊のDCA442中隊へ転属。ジャンヌと再婚。終戦。綾子が誕生

1920年 (38歳) ジャンヌ、綾子と共に帰国

1921年 (39歳) 綾子が脳膜炎により死去。視察のため再度渡仏する

1922年 (40歳) 帰国。長男・清鴻が誕生

1923年 (41歳) 次男・清旭が誕生

1924年 (42歳) 戦友ドワシーを大阪で歓迎。病没

特記以外は[3]の付録による。
家族

父・
滋野清彦は元長州藩士の陸軍中将佐賀の乱西南戦争の軍功により男爵を授かる。

姉の花子は陸軍少将河野恒吉の妻。

妹の君子は赤坂病院院長・川上昌保の長男・淳の妻。

妹の幸子は農学者・益田律治の妻。

妹の足子は有馬組・森清右衛門の養子[11]となり、その後アメリカ帰りの実業家・葛原猪平に嫁いだ[12]

弟の忠愨は酒井忠量(元松山藩士、東京物理学校数学教師)の養子となる。

前妻・和香子は清岡公張子爵の三女であり、長女の露子(1909年7月生)を産んだ翌年に病没。

後妻・ジャンヌ・エマール(1896-1968)はフランスで知り合った戦争未亡人で看護婦。

長男の滋野清鴻はジャンヌとの子供で、ジャック滋野の名でジャズピアニストとして活躍。三木鶏郎ジョージ川口と同じバンドで活動し、「和製カーメン・キャバレロ」の異名を持ったが、1989年に事故死した。

二男の滋野清旭もジャンヌとの子。ロジェ滋野と名乗るミュージシャンで、ジャズバンド「パップ・コーンズ」のドラマー。このバンドのリーダーにジェリー藤尾、バンジョー奏者に高木智之(後の高木ブー)、セカンドシンガーに仲本工事がいた[13]


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