1906年に、清朝の第11代皇帝光緒帝の皇弟である醇親王載?と、光緒帝の従弟で、西太后の腹心栄禄の娘であるグワルギャ氏
(瓜爾佳氏)・幼蘭の子として、清国(大清帝国)の首都である順天府(北京)に生まれる。祖父は愛新覚羅奕?、曽祖父は道光帝となる。1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時依然として強い権力を持っていた西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となった。また、当時は「承継同治 兼?光緒(同時に同治帝と光緒帝の2人の養子になる)」という形で皇位を継承した。即位式は紫禁城太和殿で行われ、新しい皇帝の即位は世界各国で大きく報じられた。その後宣統帝は多くの宦官や女官らとともに紫禁城で暮らすこととなる。
西太后は溥儀を後継者とするとともに、溥儀の父・醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御した。
光緒帝の崩御に関して、当初から毒殺されたのではないかという説があり、2007年に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出されたため、毒殺の可能性がより濃厚になった。
誰が光緒帝を暗殺したかについては、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、「西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために暗殺した」とする説がある一方で、「戊戌変法で光緒帝を裏切っている袁世凱が、光緒帝が復権して自身に報復するのを恐れて暗殺した」という説もあり、溥儀は自伝『わが半生』で「袁世凱による殺害」という見方を示している。しかしいずれも確たる証拠がなく、誰が光緒帝を暗殺したかは不明である。
清朝崩壊と退位中華民国臨時大総統に就任した袁世凱
その翌年の1909年初めに醇親王は、兄である光緒帝を裏切って戊戌変法を潰したとして憎んでいた北洋大臣兼直隷総督の袁世凱を失脚させ、さらに袁世凱を殺害しようとしたが、内部情報を得た袁世凱はかろうじて北京を逃れ河南省彰徳に蟄居することとなった。
その後袁世凱は、清国政府による民間資本鉄道の国有化とその反対運動をきっかけに1911年10月10日に辛亥革命が勃発すると、湖北省の武昌で起きた反乱(武昌起義)の鎮圧を名目に政界に復帰した。袁世凱は清国政府に第2代内閣総理大臣の地位を要求するとともに、醇親王の摂政王退位を要求した。
反乱鎮圧のために袁世凱の武力に頼らなければならない清朝政府は袁世凱の要求を受け入れたが、袁世凱はさらに孫文らと、宣統帝を退位させる代わりに自らが中華民国臨時政府の臨時大総統に就任するという裏取引をし、隆裕皇太后に宣統帝の退位を迫り、隆裕皇太后は皇族を集めて連日御前会議を開いた。
その席上で粛親王善耆、恭親王溥偉などは退位に激しく反対したが、清朝皇族が頼りとしていた日本の陸軍士官学校留学生で皇族出身の良弼が暗殺されるという事態におよび、隆裕皇太后はついに皇帝の退位を決断し、1912年2月に宣統帝は退位することとなった[1]。粛親王は日本租借地の関東州旅順へ、恭親王はドイツ租借地の青島に逃れてその後も清朝復辟運動を行った。
宣統帝の退位にあたり、清朝政府と中華民国政府との間に「清室優待条件」が締結された。優待条件は、
皇帝は退位後も『大清皇帝』の尊号を保持し、中華民国政府はこれを外国元首と同等に礼遇すること。
溥儀が引き続き紫禁城(と頤和園)で生活すること。
中華民国政府が清朝皇室に対して毎年400万両を支払い、清朝の陵墓を永久に保護すること。
などが取りきめられた。そのため溥儀は退位後も紫禁城で宦官らと皇帝としての生活を続けた。この頃、弟の溥傑と初対面を果たした。 その後、袁世凱は溥儀に代わり自らが「皇帝」となるべく奔走し、1915年12月12日に「帝政復活」を宣言して皇帝に即位した。 その後、1916年1月1日より年号を洪憲と定め、国号を「中華帝国」に改めた。
袁世凱の皇帝即位