溝口健二
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この頃、研究所近くの劇場ローヤル館ローシーオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたことから、溝口もそれを手伝っているうちにオペラに嵌まり、浅草オペラに通い詰めた[9]。また、寄席講談落語に親しむなど江戸趣味に凝り始め、トルストイゾラモーパッサンなどの外国文学や尾崎紅葉夏目漱石泉鏡花永井荷風らの小説を読み漁った[9][12]

洋画研究所を出てからも絵の勉強は続けていたが、それだけでは食っていけないため、花柳界育ちで顔の広い寿々の口利きで、1917年名古屋の陶器会社の図案部に職を得た。しかし、溝口はどうにも働く気にはなれず、入社翌日に東京へ舞い戻った[12]。翌1918年神戸又新日報社で広告の図案係を募集していることを知り、銀座にある東京支社に志願すると簡単に採用され、月給40円で神戸の本社へ赴任した[13]。溝口は広告取りなどの仕事をする一方で、自作の短歌を紙面に載せたり、当時盛んだった新劇に熱を上げたりしていた[2][3]。この頃は気の合った仲間3人と関西学院大学前に一戸を借り、「三昧荘」と名付けて合宿していた[13]。しかし、神戸又新日報も1年で辞めてしまい、東京に戻ると寿々の家に居候した[2]。20歳を過ぎても定職がない溝口を寿々たちは心配したが、溝口は仕事を探そうともせず、図書館や美術館に通ったり、浅草でオペラや活動写真を見物したりして日々を過ごした[9][14]
映画界入り

1920年、溝口は向島琵琶を教えていた友人の所へ遊びに行くうちに、琵琶を習いに来ていた日活向島撮影所の俳優の富岡正と親しくなり、富岡の手引きで向島撮影所に出入りするようになった。そのうち新進監督だった若山治と知り合い、若山の撮影台本の清書などを手伝っていたが、同年5月に若山に勧められるまま向島撮影所に入社した[14]。当時、映画の仕事は社会的に低く見られていたため、父や姉は入社にあまり賛成しなかったが、溝口がどうしても入りたいと言ったため、ようやく許可が下りた[15]。溝口ははじめ俳優を志望していたが、最古参監督の小口忠の監督助手に入れられ、俳優の手配をしたり、毎日スタッフの弁当の伝票を書いたりするなどの雑用もこなした[14]1922年には田中栄三監督の『京屋襟店』で助監督につき、田中にその能力を認められた[3]。しかし、同年11月の『京屋襟店』完成試写後に13人の所属俳優と阪田重則などの監督が連袂退社するという騒動が起き、その前後には小口も日活を退社したため、スタッフが手薄になった。溝口はこうした状況の中で、田中の推挙により監督昇進を果たした[16][17]

1923年2月、溝口は若山の脚本による『愛に甦る日』で監督デビューした[2]。同月には監督2作目の『故郷』を発表したが、検閲でズタズタにカットされたため、やむなく琵琶劇をつなぎに入れて公開した[注 4]。溝口は5月公開の『敗残の唄は悲し』で初めて注目され、7月公開の『霧の港』で新進監督としての評価を得た[2]。同年9月1日には関東大震災が発生し、それにより溝口の自宅は焼失し、父や甥とともに向島撮影所に避難した[20]。撮影所は軽い被害を受けただけですみ、溝口は早速会社の命令でカメラマンの気賀靖吾とともに震災後の市内の実況フィルムを撮影し、次に震災を題材にした劇映画『廃墟の中』を監督した[20][21]。しかし、向島撮影所は閉鎖と決まり、11月に溝口を含む所属者たちは京都大将軍撮影所に移った[20]。大将軍時代は1ヶ月に1本のペースで幅広いジャンルの作品を撮影したが、そのほとんどが不評で、スランプの時期と言われた[2][22]

この頃の溝口は、毎夜のごとく祇園先斗町木屋町通などで飲み歩いていたが、1925年2月頃に木屋町のやとなだった一条百合子と親しくなり、やがて同棲生活を始めた[3][23]。しかし、百合子とは痴話喧嘩が絶えず[23]、同年5月末に『赫い夕陽に照らされて』のロケ撮影から帰宅後、百合子に背中を剃刀で斬りつけられた[3][24]。傷は大したことがなくて命に別状はなかったが、この刀傷沙汰はスキャンダルとして新聞の三面記事に書き立てられたため、『赫い夕陽に照らされて』の監督を降ろされ[注 5]、さらに会社から3ヶ月の謹慎処分を受けた[2][24][25]。溝口は起訴を免れて東京へ行った百合子を追い、ヨリを戻したが、結局別れて京都に戻り、9月に日活に復社した[3][25][注 6]。翌1926年公開の『紙人形春の囁き』と『狂恋の女師匠』はスランプを脱した作品として高く評価され、前者はこの年に始まったキネマ旬報の日本映画ベスト・テンで7位に選ばれた[2][26]

1926年末、溝口は俳優の中野英治に連れられて行った大阪のダンスホールで、ダンサーの嵯峨千恵子(本名は田島かね、通称千恵子)と知り合い、次第に親密な関係になった[27][28][29]。しかし、千恵子にはオペラ歌手の夫がおり、彼を世話していたヤクザの親分から呼び出しがかかった。青ざめた溝口は、撮影所庶務課員で笹井末三郎とも親しかった永田雅一の力を借りて千恵子の身辺を清算し、翌1927年8月に永田の媒酌で結婚した[29][30]。この年から1928年にかけて溝口の作品数は減り、体調を崩すこともしばしばあった[2][31]。1928年5月には撮影所が大将軍から太秦に移転し、溝口はその新撮影所の脚本部長に就任し、しばらく監督業から離れた[3][31]


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