源頼朝
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大軍を率いて入京した義仲は後白河法皇から平氏追討の命を得るが、寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また皇位継承に介入したことにより院や廷臣たちの反感を買った[28]。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。10月7日、頼朝は藤原秀衡と佐竹隆義に鎌倉を攻められる恐れがあること、数万騎を率い入洛すれば京がもたないことの二点を理由に、使者を返して要請を断った。前述の通り、10月9日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復すると、14日には東海道東山道の所領を元の本所に戻してその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行うという内容の宣旨を下した(寿永二年十月宣旨[28]。頼朝は既に実力で制圧していた地域の所領の収公や御家人の賞与罰則を行っていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった。寿永二年十月宣旨により、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝率いる鎌倉政権は朝廷から公式に認められる勢力となった。

閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、寿永二年十月宣旨に猛抗議して頼朝追討の院宣を望むが許されなかった。11月には頼朝が送った源義経率いる500?600騎の軍勢が後白河法皇に貢ぎ物を捧げるための使者として近江国へと至る。平氏と義経に挟まれた義仲は、法住寺合戦で後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を引きだす。12月には頼朝の命令で、東国自立を主張して上洛に反対する上総広常が梶原景時に誅殺され、源範頼が義仲追討のための軍勢を率いて鎌倉を発つ。寿永3年(1184年)1月に義仲は征東大将軍に任ぜられるが、20日に範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、義仲は宇治川の戦いで敗れ粟津の戦いで討たれた[注釈 36]

頼朝は鎌倉に在った義高の処刑を考えたが、これを大姫が義高に伝えたため、4月21日に義高は女房に扮して鎌倉を逃れた。頼朝は堀親家に命じて追手を差し向け、24日に武蔵国入間川原で義高を討った。これに憤った政子の要求で頼朝は義高を討った親家の家人を梟首する。ほぼ同時期に甲斐源氏の一条忠頼が鎌倉において、頼朝の命令で天野遠景に殺害されている。またこの時期までに元々は頼朝と同格の武家棟梁だった甲斐源氏の一族それぞれを家人化させることに成功している。

その頃、朝廷では頼朝が義仲を討ったことで先に保留されたままになっていた頼朝への恩賞問題が再審議され、平将門の乱における藤原秀郷の先例に倣って正四位下に越階させるとともに、同じく藤原忠文の先例に倣って「征夷将軍」に任じるべきだとの意見が上ったが、将軍に任命するには節刀を授けるなどの儀式や将軍の下に付ける軍監・軍曹を任命する除目が必要であるとの意見も出された[11]。そこで、頼朝本人の意見も聞くために(粟津の戦い翌日である)寿永3年1月21日に鎌倉に向かって使者が送られたが、頼朝は過分な望みは無く全ては朝廷の意向に従いたいとする申状を提出することにした[28]。その使者が2月20日に京都に帰還すると改めて議論が行われ、意見がまとまらなかった征夷将軍を含めた官職への任命は頼朝の申状に沿う形で再び先送りにしてまずは叙位を先行させるとして、3月27日の除目で正四位下への叙位のみが行われた[11][28]。この情報は除目聞書(人事異動の写し)を持った義経の使者によって4月10日に鎌倉の頼朝に届けられた[11][34]
平家追討

義仲を討った範頼と義経は、平家を追討すべく京を発つ。元暦元年(1184年)2月7日、摂津国一ノ谷の戦いで勝利を収め、平重衡を捕えて京に戻った[28][11]。この戦いの後、頼朝は義経を自らの代官として都に残し、義経の差配のもと畿内の武士たちの掌握を図る一方、四国に逃れた平家を追討すべく九州・四国の武士に平氏追討を求める書状を下して、土肥実平や梶原景時を山陽諸国に派遣した。平家追討祈願のため梶原景時・畠山重忠を圓教寺に登山させ、摩尼殿に祈祷結板を打つ。

6月5日の除目で、平頼盛が還任[注釈 37]一条能保(姉または妹婿)、範頼、源広綱平賀義信国司となった[11][注釈 38]。8月8日に範頼を大将とする平家追討軍が鎌倉から出陣した。従わせた家人は北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、結城朝光比企能員、和田義盛、天野遠景らである。頼朝は範頼に対し京への駐留を禁じており、追討軍は27日に京へ入ると29日に平家追討使の官符を賜い、9月1日には西海へと赴いた[11]

10月6日、公文所を開き大江広元を別当に任じる。公文所は後に政所と名を改め、後の鎌倉幕府における政務と財政を司ることとなる[11]。20日には訴訟を司る問注所を開き、三善康信を執事とする[11]。この時期になると二階堂行政平盛時ら中下級の有能な官人達が才能を発揮する場を求めて鎌倉に下向するようになり、彼らが幕府初期官僚組織を形成する。

文治元年(1185年)1月6日、西海の範頼から兵糧と船の不足、関東への帰還を望む東国武士達の不和など窮状を訴える書状が届く。頼朝は安徳天皇建礼門院の無事のため、軍を動かさず九州の武士からくれぐれも反感を得ぬように記した書状を出し、九州の武士には、範頼に従い平家を討つことを求めた[11]。この状況をみた義経は後白河法皇に西国出陣を奏上してその許可を得ると[注釈 39]、10日に讃岐国屋島に向けて出陣し、19日の屋島の戦いで平家を海上へと追いやった。


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