源頼朝
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鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げることとなる[11]伊豆・関東地方の地図

東国の反乱の報告を受けた平家は平維盛率いる追討使を送った。頼朝はこれを迎え撃つべく10月16日に鎌倉を発し、途中で従わぬ豪族を制圧しながら黄瀬川に着陣する。10月20日、甲斐を発して鉢田の戦いに勝利した武田信義らと共に富士川の戦いに勝利する[注釈 31]。その後千葉常胤や上総広常らの言を容れ常陸国佐竹氏討伐に向かう。この最中、奥州藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている[11]

帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を処刑する。次いで佐竹秀義を討つべく常陸国へと進軍する。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった(金砂城の戦い)。鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所別当に補す。侍所は後の鎌倉幕府で軍事警察を担うこととなる[11]頼朝寄進江島神社奥津宮鳥居

治承4年(1180年)末までに、四国伊予河野氏近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏美濃源氏鎮西九州)の豪族らが挙兵して全国各地は動乱状態となった[28]。平家も福原から京都に都を戻して反撃に転じ、近江源氏や南都寺社勢力を制圧する。反撃に入った平氏であったが、養和元年(1181年)閏2月4日、最高権力者の平清盛が熱病で世を去った[注釈 32]。全国的な反乱が続く中、平家は平重衡を総大将として尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は源行家らを墨俣川の戦いにて打ち破り、美濃・尾張は平氏の勢力下に入った。頼朝は和田義盛を遠江に派遣するが[11]、平氏はそれ以上は東に兵を進めず都に戻った[31]

一方、養和元年(1181年)6月の横田河原の戦い源義仲が勝利し、義仲は勢力を伸ばしつつあった信濃上野に加えて越後にも進出した。武田信義を中心とする甲斐源氏は甲斐、信濃、駿河、遠江を勢力下に置いていた。この時期、頼朝は南坂東を支配下に置いてはいたものの北坂東の豪族と争った記録が『吾妻鏡』に散見されている。また、常に奥州藤原氏や佐竹氏残党の侵攻に脅かされていた。養和元年(1181年)7月頃、頼朝は後白河法皇に平家と和睦の書状を送るが、清盛の後継者である平宗盛は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した[28]。一方、平家は都への食糧供給地である北陸に攻撃の矛先を向け[28]東海道東山道の対平家最前線は甲斐源氏が担っていた。よって頼朝がこの時期に平家と直接対峙することはなかった。さらに翌年の寿永元年(1182年)からは養和の飢饉によりいずれの勢力も大規模な軍事行動を行うことができず膠着状態となった。そのような中、8月に妻・政子が嫡男の源頼家を出産している[注釈 33]。なお、政子の妊娠中に頼朝は亀の前という妾を寵愛し、それを知った政子は亀の前の住む家を破却する後妻打ち(うわなりうち)を行っている[32]

寿永2年(1183年)2月、野木宮合戦源義広足利忠綱らを破り[11]、これにより坂東で頼朝に敵対する勢力は無くなった[注釈 34]。挙兵直後から頼朝は朝廷の従来の枠を外れた方法で、御家人の所領の保証、敵方の没収所領の給付を行い、「本領安堵」「新恩給付」という豪族たちの最大の願望を実現していき、坂東豪族の支持を集めていった。
義仲との戦い源頼朝、巻物、14世紀後半源頼朝像(中村不折画)

寿永2年(1183年)春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた源義仲が、頼朝と対立する叔父の義広・行家を庇護したことにより、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。両者の話し合いで義仲の嫡子・義高を頼朝の長女・大姫の婿とする形で実質的な人質として鎌倉に送ることで和議が成立した[注釈 35]

義仲は平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門を都から追い落とした。朝廷では平家追討の恩賞に対して、議論が行われて戦功第一は頼朝、次は義仲、その次は行家という結論は出たものの、未だに上洛していない頼朝の京官への任命について上洛後に任じれば良いとする藤原経宗と、直ちに任命すべきであるとする九条兼実藤原長方との意見対立があってまとまらず[33]、8月10日に義仲は従五位下左馬頭越後、行家は従五位下備後守に任じられたものの、頼朝については10月9日に平治の乱で止められた従五位下の位階に復されたのみであった[34]


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