源頼朝
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^ その後、野口実はもう一つの可能性として、かねてから浦賀水道一帯と支配権を巡って対立してきた三浦氏と長狭氏が、長寛元年(1163年)に杉本義宗(三浦義澄の兄で和田義盛の実父)が長狭常伴に討たれた[23]ことで決定的な対立関係となり、三浦氏は最初から頼朝を擁して長狭氏を滅ぼすつもりで軍事行動を起こし(平家方についたという話自体が言いがかりの可能性もある)、常伴はこれに応戦せざるを得なかったとする見解を出している[24]
^ なお、『吾妻鏡』によると8月29日の安房上陸後の頼朝軍の動向は次の通りになる。頼朝は、最初に幼少時仕えていた安西景益に御書を送り、9月3日、安房国の住人長狭常伴に襲撃されかかるが、先に安房国に渡っていた三浦義澄が察知して撃退する。翌4日一族および在庁官人を率いて参じた景益の進言に従い、和田義盛を広常の許に、安達盛長を常胤の許に使者として遣わし、洲崎明神に参詣して御願書を奉じる。9日盛長が千葉より帰参すると、丸御厨を巡検し伊勢太神宮への御願書を書き、洲崎明神に寄進状を送った後、13日に上総国に赴く。その際千葉常胤の加勢を得、下総国で常胤の嫡孫成胤が、同13日に平家に従う下総国目代を滅ぼし翌14日以前から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官代親政を生虜る(結城浜の戦い)。17日には広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。頼隆は平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした。19日、当初は日和見を決め込んでいた上総広常が2万騎を率いて参じると、本来は喜ぶべき所を逆に広常の遅参を咎め、恭順させたとされている。だが、この広常の日和見に関しては現在疑問を抱く学説が提示されており、広常は当初から頼朝方として行動していたと考えられている(野口実『源氏と坂東武士』)。また、頼朝の房総での動向については、『吾妻鏡』以外の延慶本『平家物語』『源平闘諍録』『源平盛衰記』などに細部にわたる異説があり、定説はない。
^ 『吾妻鏡』によると9月29日にいつまでも帰服をしない江戸重長の謀殺を葛西清重に命じるが清重はこれを辞退したと推測される[25]。その後、10月4日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長が頼朝に従うと、彼らによって父・三浦義明を討たれた義澄ら三浦一族を頼朝が説得して、三浦・秩父両一族を和解させた。頼朝の手による相模の有力武士団である三浦氏と武蔵の有力武士団である秩父氏の和解は鎌倉を安定させる上で重要な意味合いを持った[26]
^ 後に大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。また先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移し、父義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立落成が1180年に行われた。
^ 反乱軍の主力は駿河を制圧した甲斐源氏であり、頼朝は黄瀬川に駐留して形勢を観望していたという説もある[27]
^ その遺言は「わが子孫、一人と雖も生き残らば骸を頼朝の前にさらすべし」であったという[29]。清盛の死去に対して頼朝は「天罰をかうむり了はんぬ、仏神の加被ひとへに我が身に在り、士卒の心いよいよ相励むべし」と豪語し、東国の結束は一層強まったという[30]
^ 政子の安産祈願のために、鶴岡八幡宮の参道を御家人らと共に自ら手で築き、また、伊豆山権現土肥遠平筥根権現佐野基綱相模一宮に梶原景高、三浦十二天佐原義連武蔵六所宮に葛西清重、常陸鹿島神宮に小栗重成、上総一宮に上総良常、下総香取神宮に千葉成胤、安房東条?明神三浦義村、同国洲崎明神に安西景益を祈祷のため奉幣使として遣わした[11]
^ 常陸においては佐竹氏が未だに反抗していたとの見方もある。詳細は「金砂城の戦い」参照。
^ 『平家物語』『源平盛衰記』ではこのあたりを次のように記している。相模国松田に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく信濃国へと走った。頼朝は武田信光の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国関山で2,000余騎を率い待ち構え、頼朝は10万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景岡崎義実を使者として返す。行家か義仲の嫡男義高を人質として差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿とした。
^ 頼朝は、範頼らの入京にあたって軍に充分な食糧を携行させ、また略奪や狼藉行為を堅く禁じていたため、義仲軍上洛時のような混乱は生じなかった。
^ 頼朝は平治の乱で命を救われた池禅尼の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平家都落ちの際に奪われていた官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしている[11]
^ なお、このとき義経は任官から漏れて、後に頼朝に無断で検非違使の官位を得たことで怒りを買ったとされている。この任官が頼朝の不興を買ったという話は最近では否定的な見方をされつつある。義経が西国攻めを任されなかった理由には、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上、西国に出兵させることができなかった[35]、一ノ谷の戦い直後に伊勢伊賀で平氏の残党勢力が三日平氏の乱を起こしたために出撃できなかった[36]等の説が提示されている。
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