源頼朝
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 頼朝は、範頼らの入京にあたって軍に充分な食糧を携行させ、また略奪や狼藉行為を堅く禁じていたため、義仲軍上洛時のような混乱は生じなかった。
^ 頼朝は平治の乱で命を救われた池禅尼の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平家都落ちの際に奪われていた官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしている[11]
^ なお、このとき義経は任官から漏れて、後に頼朝に無断で検非違使の官位を得たことで怒りを買ったとされている。この任官が頼朝の不興を買ったという話は最近では否定的な見方をされつつある。義経が西国攻めを任されなかった理由には、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上、西国に出兵させることができなかった[35]、一ノ谷の戦い直後に伊勢伊賀で平氏の残党勢力が三日平氏の乱を起こしたために出撃できなかった[36]等の説が提示されている。
^ 『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり[37]屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平家の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平家滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある[38]
^ それには義経の専横や東国武士達の反感が記されていたという[11]
^ 無断任官者は兵衛尉義廉、佐藤忠信師岡重経渋谷重助、小河馬允、後藤基清、馬允有経、梶原友景、梶原景貞、梶原景高、中村時経、海老名季綱、馬允能忠、豊田義幹、兵衛尉政綱、兵衛尉忠綱、平子有長、平山季重梶原景季、縫殿助、宮内丞舒国、山内首藤経俊八田知家小山朝政ら24名。
^ この事件は、義経との関連で論じられることが多いが、「自由任官の禁止」(従者・郎党を持つ権門であればこうした規制は一般的であった)、「成功の重視」(鎌倉幕府が官職を推挙する際には朝廷への成功を果たした者から推挙する)、「任官後の在京勤務励行」(朝幕関係と東国を領域とする幕府支配の固有性を維持のバランスを重視する。なお、この方針により翌年2月2日に配下の御家人の任官返上を朝廷に申し出ている[11])という、鎌倉幕府の朝廷官職に対する基本政策が示された点が重要である[39]
^ その頃、鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、今度の頼朝の上洛は取り止めたがなお怠りなく軍備を固めるように命じて、いざとなれば大挙出兵して上洛する場合に備えている。
^ 法皇が高階泰経を通じて出した弁明の使者は11月15日に鎌倉に到着したが恐怖にかられて営中に参ぜず、一条能保の屋敷に行って鎌倉殿宛の書状を持参したことを告げた。能保にあてた一通には「義経等の事は、まったく泰経の仕組んだものではなく、ただ義経の兵力を恐れて院に奏上しただけである」と取り成しを願う内容であった。能保は使者を頼朝の所へ連れて行き、泰経の頼朝宛の書状を披露した。それは「行家・義経謀反のことは、天魔の所為というほかない。頼朝追討の宣旨を下さねば宮中で自殺するなどと言うので、当座の騒ぎを避けるための処置であり、法皇の本心ではなかった」という法皇の意向に従った弁明であった。11月26日、鎌倉の使者が泰経に返事の書状を持参して、院の御所の泰経を尋ねると、不在という答えだったので大いに怒り、文箱を院の中門の廊に投げ込んで立ち去った。その書状は兼実に届けられ、表に「大蔵卿殿御返事」とあり、下の署名はなく、内容は「行家・義経謀反のことは、天魔の所為とおっしゃるが、とんでもない事だ。天魔とは仏法の妨げで、人倫の災いとなる者の事。頼朝は多くの朝敵を滅ぼすと、政権を法皇にお任せしたのに、たちまち謀反人とされてしまったのはどういうわけか。法皇のお考えと無関係に、そもそも院宣が下されるものなのか。行家といい、義経といい、召し捕られぬところから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と後白河法皇の変心と無責任ぶりを痛罵したものだった。
^ 狼狽する法皇と泰経は25日に行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出す。「行家・義経が逆風の難にあったのは天罰である」と義経を罵り、泰経に謹慎を命じる。
^ 千葉常秀(祖父常胤譲り)・梶原景茂(父景時譲り)・八田知重(父知家譲り)が左兵衛尉、三浦義村(父義澄譲り)・葛西清重が右兵衛尉、和田義盛佐原義連足立遠元が左衛門尉、小山朝政比企能員が右衛門尉。
^ 頼朝の肖像については、『[特別展]没後八〇〇年記念 源頼朝とゆかりの寺社の名宝』展図録[63]に、不出品作も参考図を付け、網羅的に掲載・解説がされている。
^ 兼実に頼朝のことを伝えた静賢の言葉とする説もある。
^ 例えば、元暦元年(1184年)6月に受領に任じられた三河守源範頼ら3名[75]、同じく文治元年(1185年)8月に受領に任じられた伊予守源義経ら6名[76]は、いずれも頼朝の戦功と引き換えに、その推挙によって任じられた清和源氏の一族であった[77]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:202 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef