源頼朝
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^系図纂要』にも尾張幡屋で生まれたことから幡屋武者王といったとある。
^平家物語』(剣巻)に「兵衛佐頼朝は、末代の源氏の大将となるべき故にや、彼の幡屋にてぞ生れ給ふ。」とある。
^ a b この時点での清和源氏、河内源氏全体を統括する嫡流の棟梁というものは存在せず、義朝以外の各源氏の武士たちは義朝の意思とは関係ない独立した立場の武士として活動していた[1]
^ a b 為義は義家の四男であったとする説もあり、その場合は義親は頼朝の父祖ではない[3][4]
^ 坊門信隆吉田経房らとともに務めている[5]
^ これにより「鎌倉殿」の呼称が定着するまで長く「佐殿(すけどの)」と称された。又『吾妻鏡』でも元暦二年に従二位に昇叙するまで兵衛府の唐名である「武衛」で記述されている。
^ 『平治物語』によると、池禅尼のこの助命嘆願は早世した我が子・平家盛に頼朝が似ていることから清盛に助命を請うたといわれている。『愚管抄』によると、見るからに幼いのに同情して助命嘆願したと言われている
^ 摂津源氏源仲綱が伊豆守だったとの説もある。
^ 頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。/金比羅系本『平治物語』によると、一行は近江国へと至るが、頼朝は野路で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。一度はこれを切り抜け野州で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は浅井に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む美濃国青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄・朝長を亡くす。父・義朝は尾張国野間長田忠致の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ六条河原で首を斬られた。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。/『清?眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。/『吾妻鏡』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後に関ヶ原において捕らえられたとある。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。
^ 池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・牧の方の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物であり、平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする説もある[9]
^ また流刑当初は最初に工藤祐継、祐継死後はその弟の伊東祐親預かりの身柄となり伊東に住まわされていて、後に北条預かりとなり中伊豆に行ったと見る説もある[10]
^ 『吾妻鏡』治承4年8月24日条には、石橋山の戦いに敗れ落ち延びる途中で数珠を落とした頼朝が、その数珠は狩場に来た相模国の武士の多くが見知ったものであることを危惧している。
^ 時政の次男・北条義時の通称と同名だが別人である。
^ 北条時政の最初の正室は伊東祐親の娘とも妹ともされ、義時は彼女の子とされる。政子の生母は不明であるが、政子も義時と母親が同じであった場合、伊東祐親の立場からすれば頼朝に娘と孫(あるいは姪)の二股をかけられたことになる。
^ 保立は『吾妻鏡』『曾我物語』などに生じている矛盾を整理して、北条政子との婚姻を安元元年(1175年)夏以前、大姫の誕生を安元2年(1176年)3月とするとともに、頼朝と八重姫の婚姻は伊東祐親自身の意向であったが、頼朝が政子との婚姻を通じて北条氏とも関係を持ったことを知った祐親が一種の「うわなり打ち」として頼朝襲撃に及んだとする説を唱えている[12]
^ a b 『吾妻鏡』治承4年6月27日条には「三浦の次郎義澄・千葉の六郎大夫胤頼等北條に参向す。日来京都に祗候す。去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、 官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。御閑談刻を移す。他人これを聞かず。」とある。
^ この挙兵決意には都の三善康信の知らせや[13]、京より下った三浦義澄千葉胤頼らの言葉があったとも言われている[注釈 20]
^ なお、平家側の本来の追討目的は伊豆に潜伏していた源頼政の孫の源有綱で、頼朝が狙われていたというのは誤報であり、知行国主の交代によって厳しい立場となった頼政の家人で在庁官人の工藤茂光が有綱の代理として頼朝を持ち出したという見解も示されている[14]
^ 以仁王の乱を受けて、伊豆国の知行国主が源頼政(伊豆守は息子の源仲綱)から平時忠(伊豆守は猶子の平時兼)に交替したのは治承4年6月29日で、時忠から目代に任じられた兼隆が頼朝に討たれたのはそれからわずか47日後のことであるため、兼隆が襲撃されたのは目代任命以前より頼朝と同じく中央から下ってきた流人として頼朝と勢力争いを続けた(頼朝の背後に北条時政がいたように、兼隆にも同じ田方郡堤信遠が背後にいた)ことが背景にあったとする見方もある[15]
^ 『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りである。挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝えた。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らしたことを頻りに後悔した。当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え山木兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。
^ 従った者は北条義時工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであった。
^ 『吾妻鏡』には次のような逸話がある。平家方は頼朝を捜し梶原景時は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った。この間に頼朝は3歳より奉っていた観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、必ず誹りを招く」と述べた。
^ その後、野口実はもう一つの可能性として、かねてから浦賀水道一帯と支配権を巡って対立してきた三浦氏と長狭氏が、長寛元年(1163年)に杉本義宗(三浦義澄の兄で和田義盛の実父)が長狭常伴に討たれた[23]ことで決定的な対立関係となり、三浦氏は最初から頼朝を擁して長狭氏を滅ぼすつもりで軍事行動を起こし(平家方についたという話自体が言いがかりの可能性もある)、常伴はこれに応戦せざるを得なかったとする見解を出している[24]
^ なお、『吾妻鏡』によると8月29日の安房上陸後の頼朝軍の動向は次の通りになる。頼朝は、最初に幼少時仕えていた安西景益に御書を送り、9月3日、安房国の住人長狭常伴に襲撃されかかるが、先に安房国に渡っていた三浦義澄が察知して撃退する。翌4日一族および在庁官人を率いて参じた景益の進言に従い、和田義盛を広常の許に、安達盛長を常胤の許に使者として遣わし、洲崎明神に参詣して御願書を奉じる。9日盛長が千葉より帰参すると、丸御厨を巡検し伊勢太神宮への御願書を書き、洲崎明神に寄進状を送った後、13日に上総国に赴く。その際千葉常胤の加勢を得、下総国で常胤の嫡孫成胤が、同13日に平家に従う下総国目代を滅ぼし翌14日以前から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官代親政を生虜る(結城浜の戦い)。17日には広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。
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