源頼政
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頼政は大内守護として、嫡男の仲綱とともに二条天皇・六条天皇高倉天皇の三代に仕え、また後白河法皇の武力として活動している。安元3年(1177年)、院近臣の西光と対立した延暦寺大衆が強訴に攻め寄せた時には平重盛らとともに御所の警護に出動している[注釈 1]

歌人として優れていた頼政は藤原俊成俊恵殷富門院大輔など多くの著名歌人と交流があったことが知られ、その詠歌は『詞花集』以下の勅撰和歌集に計59首入集しており、家集に『源三位頼政集』が残る。また、晩年は官位への不満をもらす歌が多くなっている。頼政の位階は正四位下だが、従三位からが公卿であり、正四位とは格段の差があった。70歳を超えた頼政は一門の栄誉として従三位への昇進を強く望んでいた。治承2年(1178年)、清盛の推挙により念願の従三位に昇叙した。

平家物語』によると、清盛は頼政の階位について完全に失念しておりそのため長らく正四位であった頼政が、のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな ? 『平家物語』 巻第四 「鵺」

という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたという。

史実でもこの頼政の従三位昇進は相当破格の扱いで、九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているほどである。清盛が頼政を信頼し、永年の忠実に報いたことになる。この時74歳であった。

翌治承3年(1179年)11月、出家して家督を嫡男の仲綱に譲った。
以仁王の挙兵詳細は「以仁王の挙兵」を参照

この頃、平氏政権と後白河院政との間で軋みが生じていた。治承元年(1177年)に鹿ケ谷の陰謀事件が起きて法皇の関与が疑われた。そして、治承3年(1179年)11月、法皇と対立した清盛は福原から兵を率いて京へ乱入してクーデターを断行、院政を停止して法皇を幽閉する挙に出た(治承三年の政変)。翌治承4年(1180年)2月、清盛は高倉天皇を譲位させ、高倉帝と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させた。

これに不満を持ったのが後白河法皇の第三皇子の以仁王(高倉宮・三条宮)である。以仁王は法皇の妹・八条院ワ子内親王猶子となって皇位への望みをつないでいたが、安徳天皇の即位でその望みが全く絶たれてしまった。頼政はこの以仁王と結んで平氏政権打倒の挙兵を計画した。

挙兵の動機について、『平家物語』では仲綱の愛馬を巡って清盛の三男の平宗盛がひどい侮辱を与えたことが原因であるとし、頼政は武士の意地から挙兵を決意して夜半に以仁王の邸を訪ね、挙兵をもちかけたことになっている。しかし軍記物語である『平家物語』のエピソードは信じ難く、当時77歳という高齢で清盛の推挙によって破格の従三位にまでなって功成り名遂げ、清盛に恨みもない頼政が謀反を考える理由は見当たらないことから、皇位への道を断たれて不満を持っていた以仁王の方から頼政に挙兵を持ちかけたという説もある[4][5]。一方で、代々の大内守護として鳥羽院直系の近衛天皇・二条天皇に仕えた頼政が系統の違う高倉天皇・安徳天皇の即位に反発したという説もある[6][5]。また、以仁王との共謀自体が頼政挙兵の動機を説明づけようとした『平家物語』の創作で、5月21日の園城寺攻撃命令に出家の身である頼政が反抗したために、平氏側に捕らえられることを恐れて以仁王側に奔ったとする説もある[7]

同年4月、頼政と以仁王は諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を作成し、源行家(為義の十男)を伝達の使者とした。だが5月にはこの挙兵計画は露見、平氏は検非違使に命じて以仁王の逮捕を決めた。だが、その追っ手には頼政の養子の兼綱が含まれていたことから、まだ平氏は頼政の関与に気付いていなかったことがわかる。以仁王は園城寺へ脱出して匿われた。5月21日に平氏は園城寺攻撃を決めるが、その編成にも頼政が含まれていた。その夜、頼政は自邸を焼くと仲綱・兼綱以下の一族を率いて園城寺に入り、以仁王と合流。平氏打倒の意思を明らかにした。

挙兵計画では、園城寺の他に延暦寺や興福寺の決起を見込んでいたが、平氏の懐柔工作で延暦寺が中立化してしまった。25日夜には園城寺も危険になり、頼政は以仁王とともに南都興福寺へ向かうが、夜間の行軍で以仁王が疲労して落馬し、途中の宇治平等院で休息を取った。そこへ平氏の大軍が攻め寄せた。辞世の句を詠む頼政。月岡芳年扇の芝(源頼政公自刃の地)

26日に合戦になり、頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は以仁王を逃すべく平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、子の仲綱や宗綱や兼綱が次々に討ち死にあるいは自害し、頼政も辞世の句を残して郎党渡辺唱(となう)の介錯で腹を切って自刃した。享年77[注釈 2]辞世の句埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける ? 『平家物語』 巻第四 「宮御最後」

以仁王は脱出したが、藤原景高伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討ち取られた。以仁王と頼政の挙兵は失敗したが、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝・義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる。皇太子時代に京都に滞在中宇治を訪れた大正天皇は『遊宇治』という漢詩にて「宇治の地で最も素晴らしいのは平等院鳳凰堂の威容でありここで自刃した源頼政の辞世の歌は心を動かす」と詠んでいる[8]

頼政の末子の広綱や、仲綱の子の有綱・成綱は知行国の伊豆国にいたため生き残り、伊豆で挙兵した頼朝の幕下に参加している。
経歴

※日付は旧暦のもの

保延2年(1136年

4月17日:蔵人に補任。

6月13日:従五位下に叙位。


仁平3年(1153年)3月:美福門院昇殿を許される。

久寿2年(1155年)10月22日:兵庫頭に任官。

保元3年(1158年)10月2日:内昇殿を許される。

保元4年(1159年

1月28日:従五位上に昇叙。兵庫頭如元。

改元して平治元年12月10日:伊豆を兼任(退任時期は不詳)。


仁安元年(1166年)10月21日:正五位下に昇叙。兵庫頭去る。

仁安2年(1167年)1月30日:従四位下に昇叙。

仁安3年(1168年)11月20日:従四位上に昇叙。

嘉応2年(1170年)1月14日:右京権大夫に任官。

承安元年(1171年)12月9日:正四位下に昇叙。右京権大夫如元。

承安3年(1173年)1月19日:備後権守を兼任。

安元2年(1175年)2月5日:右京権大夫・備後権守両官辞任。

治承2年(1178年)12月24日:従三位に昇叙。

治承3年(1179年)11月28日:出家。

治承4年(1180年)5月26日:薨去。法名「蓮華寺建法澤山頼圓」

伝説・伝承源三位頼政(歌川国芳画『列猛伝』より)
『平家物語』の説話

古典『平家物語』には(ぬえ)と呼ばれる怪物退治の説話が記されている。それによると、近衛天皇の御世、帝が毎晩何かに怯えるようになった。

その昔、帝の病平癒祈願のため、源氏の棟梁・源義家が御所にあがり、「陸奥守、源義家!」と叫んで弓の弦を三度鳴らしたところ病魔が退散し、帝の容態はみるみる回復した。

そのため此度も武士を警護につけるがよかろうということになり、同じ源氏の一門で武勇の誉れ高かった頼政が選ばれた。そして深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という「鵺」と呼ばれる怪物が現れた。頼政は弓で鵺を射、駆けつけた郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留める。その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せてに流したという。

現存する平安期の日本刀に「獅子王(ししおう)」の号が付けられた太刀があり、この鵺退治の功により朝廷より頼政に下賜されたものである、との伝承がある。

また、現在愛知県名古屋市にある徳川美術館が所有している香木蘭奢待のかけらは、頼政が獅子王の太刀を下賜された際に同時に拝領したものであるという。


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