源頼家
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注釈^ 『吾妻鏡』で若狭局は愛妾、辻殿は室と書かれているが、若狭局所生の一幡は嫡子に等しい扱いを受けており、誰が正室かははっきりしていない。詳しくは辻殿#源頼家の妻妾としての地位を参照のこと。
^吾妻鏡』は5人としながら名前を4人しか記していない。残る1人については北条時房を比定する見解がある。『北条九代記』では小笠原長経・比企三郎・和田朝盛・中野能成・細野四郎の5人となっている。
^ 異説として、当時守護が設置されたのは一幡に譲られる予定であった関東28か国のみで、千幡に譲られた関西38か国の守護は文治2年6月21日に停止された状態のままであったとする保立道久の見解がある[7]
^ 『愚管抄』や『武家年代記』『増鏡』によれば義時の送った刺客、古活字本『承久記』や『梅松論』では時政の送った刺客としている。
^ 「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」[8]
^ 「修禅寺の浴室の内にて討奉り。」[9]
^ 森内優子の指摘に拠れば、『吾妻鏡』建久10年4月1日条には頼朝の時代に熊谷直実久下直光の訴訟の口頭弁論の際に直実が直光と梶原景時が通じていると疑って刀を抜いて髻を切ってそのまま逐電してしまうという騒動が起きたことをきっかけに移転が決まったとされているが、この騒動が記されているのは同じ『吾妻鏡』の建久3年11月25日条であり、その間の6年間に問注所の移転が実施されず頼朝が死んだ直後のこの時期に移転が行われた明確な理由は書かれていない(4月1日条にはその間は三善康信邸で訴訟が行われていたと書かれているが、康信邸からの移転としても理由は記されていないことに変わりは無い)。更にこの訴訟の前年にあたる建久2年3月1日付に熊谷直実が作成した譲状の名義は「地頭僧蓮生」であり、その書体や花押から現存する譲状は直実作成の正本の可能性が高く[10]、建久3年11月25日に実際に直実と直光の訴訟が行われていたとしても既に出家している直実が刀を抜いて髻を切ることは不可能であり、『吾妻鏡』の建久3年11月25日条に脚色や曲筆の可能性が考えられる以上、これを受けている建久10年4月1日条の内容もそのままの形では信用できないことになる(森内は問注所の移転は頼朝の意志ではなく、頼朝の死によって御家人たちがかねてからの要求を実現させたとみる)。

出典^ 龍粛・訳注『吾妻鏡(一)』岩波文庫、1996年、104頁。 
^ a b c d e 永井 2010.
^ 石井進『中世武士団』 小学館、1974年。
^ a b 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』PHP新書、2020年。
^ 藤本頼人『源頼家とその時代 二代目鎌倉殿と宿老たち』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2023年。
^ 『吾妻鏡』
^ 保立道久「鎌倉前期国家における国土分割」『歴史評論』第700号、2008年8月。 /所収:保立道久「第6章 鎌倉前期国家における国土分割」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年。 
^ 『愚管抄』(巻第六)
^ 『保暦間記』(2巻)
^ 林譲「熊谷直実の出家と往生に関する史料について-『吾妻鏡』史料批判の一事例」『東京大学史料編纂所研究紀要』15号、2005年。 /所収:高橋 2019, pp. 47?58
^ 森内優子「熊谷直実の出家に関する一考察」『文書館紀要』12号、埼玉県立文書館、2008年。 /所収:高橋 2019, pp. 93?102
^ a b c d e f g h i j k l m n 野口 2014.

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