源頼家
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頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女河越尼河越重頼室)が呼ばれた。その他の乳母として梶原景時の妻の他、比企尼の三女平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。

頼家の側近は、比企三郎比企時員小笠原長経中野能成北条時房和田朝盛源性義印紀行景平知康などであり、政治的後見人は梶原景時比企能員であった。いずれも頼朝によって指名された人々である[2]

建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りで、12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は「武将の嫡子なら当たり前のことである」と使者を追い返した。これについては、頼家が比企氏と関係が深かったため政子がそれを嫌ったとする説や、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされたことを人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが政子にはそれが理解できなかったとする説がある[3]。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある[4]。なお、この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪に処されている。

建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は武芸の達人として成長した。建久9年(1198年)には長子の一幡が誕生している。

なお、『吾妻鏡』には頼家の元服記事がない。これについては、『吾妻鏡』の欠落した部分である建久7年(1196年)から建久10年(1199年)1月までのうち頼家が叙任された建久8年(1197年)以前のどこかで元服したとする説[5]や、建久6年以前に元服したが『吾妻鏡』編纂者が何らかの理由でそれを記載しなかったとする説[4]などがある。
第二代鎌倉殿

建久10年(1199年)1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1 - 2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に三左衛門事件が発生している。

頼家が家督を相続して3か月後の4月、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を聴断することは停止された。反発した頼家は小笠原長経比企三郎比企時員中野能成以下若い近習5人[注釈 2]を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。また正治元年(1199年)7月には小笠原、比企、中野、和田朝盛らに対して、安達景盛の留守を狙い、その愛妾を召し連れて来るように命じた。このあたりの『吾妻鏡』には、頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の慣習を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられている(十三人の合議制の実態や頼家が本当に暗君であったかについては、#十三人の合議制の実態と頼家の実績を参照)。

合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官の梶原景時に反発する御家人たちには、御家人66名による景時糾弾の連判状を頼家に提出した。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救うことができず、景時は鎌倉追放を申し渡された。正治2年(1200年)1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した[6]九条兼実の『玉葉』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ一族とともに追放されたという。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせたことは頼家の失策であると評した(梶原景時の変)。

建仁元年(1201年)正月から5月にかけて、景時与党であった城氏一族が建仁の乱を起こして鎮圧される。


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