源義経
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注釈^ 義経肖像としてよく用いられるこの巻物は弁慶の画と対になっており、『義経記』の藤原泰衡に襲撃される場面を描いたものである(容姿については#容貌・体格を参照)。
^系図纂要』では誕生日を2月2日としている。
^ 判官とは四等官制において第三位目の職を指す言葉であり、義経が任じられた左衛門少尉が衛門府の、検非違使少尉が検非違使の第三位の職にあたるためこう呼ばれる。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。
^ 義経の少年期を記した「牛若奥州下りの事」の部分は金刀比羅宮本にはなく、学習院本、京師本による。
^ この時の常盤の逃亡やその後の話は『平治物語』や『義経記』などの軍記物に詳しいが、軍記物の性格上どこまでが事実を語っているかの判定が難しい。
^ 軍記物や伝説によると11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知ると、僧になることを拒否して鞍馬山を駆け回り、武芸に励んだ鞍馬山で天狗の面を被った落人(=鞍馬天狗)から剣術の手解きを受けたとされている。
^ 藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物は当時多くいた奥州と都を行き来する商人達を元にした虚構の人物と思われる。
^ 『吾妻鏡』では「弱冠一人」で宿所を訪れたとあり、『源平盛衰記』では20騎、『平治物語』では100騎を率いていたとする。
^平家物語』『源平盛衰記』による。『吾妻鏡』寿永3年2月7日条でも、義経が精兵70騎を率いて鵯越から攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしたとされている。ただし近年、この「戦い」において義経が果たした役割や、「逆落とし」が実際にあったか等については、様々な異論も提示されている。詳細は一ノ谷の戦い参照。
^吾妻鏡』6月21日条には、義経は強く任官を望んでいたが、頼朝はあえて許さなかった旨の記載がある。この人事は知行国主頼朝の下にあって兵糧徴収を行なう任務がある範頼らと、在京して平氏との最前線に位置する義経との役割の差であったとみなす説がある[13]
^ なお『吾妻鏡』によると義経の西国出陣の停止は次のような理由になっている。頼朝の推挙を得ずに後白河によって左衛門少尉検非違使少尉(左衛門府・検非違使の三等官=判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞することができなかった」と報告。頼朝は「意志に背くことは今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。しかし、最近の研究によると義経が西国へ出陣しなかったのは三日平氏の乱の影響のためであって、任官はこの時期にはさほど問題となっていなかったのではないかという見解がある[13][14]
^ 従来はこの出陣は『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月21日条、5月5日条の記載に基づき頼朝の命令によって行なわれたとみなされていた。しかし下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』正月10日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある[15]
^ 『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。義経が戦の作法を無視して、水手と梶取を射殺した話はドラマや小説等によく見られ、安田元久は「このとき義経は、当時としては破天荒の戦術をとった。すなわち彼は部下に命じて、敵の戦闘員には目もくれず、兵船をあやつる水手・梶取のみを目標に矢を射かけさせたのである」[16]として、水手と梶取の射殺が壇ノ浦の戦局を決定づけた最大の要因と推測している。なお『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や梶取を射殺し、斬り殺したと描かれていて、非戦闘員の射殺が義経の命令によるものか、兵の暴走によるものかは定かでない。
^ a b 「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにもかかわらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承っているものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利したことなので早く関東へ帰りたいと思います」
^ 頼朝は範頼に充てた書状で平氏が三条高倉宮(以仁王)、木曽義仲が「やまの宮・鳥羽の四宮(実際には後白河法皇皇子の円恵法親王)」を殺害したこと(すなわち皇親の殺害行為)が没落につながったと捉えて安徳天皇の保護を厳命(『吾妻鏡』所収「文治元年正月六日源頼朝書状」)し、剣璽の確保についても同様の命令(『吾妻鏡』文治元年3月14日条)を出しており、義経にも同様の命令が出されたとみられている。にもかかわらず、義経は安徳天皇を保護できず、さらに行方不明の宝剣に関しても宇佐八幡宮に発見の祈願を行った(『延慶本平家物語』)だけで積極的に捜索しなかった。なお、頼朝および朝廷は範頼や佐伯景弘らに命じて以後2年近くも海人を用いた宝剣捜索を行ったこと(『吾妻鏡』文治元年5月5日条および文治3年6月3日条、『玉葉』文治2年3月4日条および文治3年9月27日条)が知られている[17]
^ 宣旨作成者は高階泰経、同経仲、同隆経、平親宗小槻隆職藤原光雅。親義経派の腹心として難波頼経平業忠平知康。結構衆(企てた者たち)として一条能成中原信康、平業忠(腹心)、藤原章綱(藤原範綱)、平知康(腹心)、藤原信盛、藤原信実、藤原時成、中原信貞。
^ 藤原範季藤原朝方興福寺聖弘鞍馬寺東光房など。
^ @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}義経が泰衡によって討たれ、その首級が鎌倉に届けられることになった際の使者を、『吾妻鏡』では「新田冠者高平」と伝えているが、この人物は泰衡の四弟(秀衡の四男)藤原高衡のことであった可能性が高い。「新田冠者」は文治五年奥州合戦で捕虜となった樋爪五郎季衡の子経衡に冠されている名称であるので、使者は経衡だった可能性もあるが、義経の首級を届けるという重要な任務の遂行を、泰衡が自らの弟に託したと考えるのはそう不自然なことではないと思われる。また、奥州合戦後に大河兼任の乱を起こした大河兼任の兄弟・新田三郎入道とする研究もある。[要出典]
^ さらに『尊卑分脈』の記述によれば、五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に誅殺している。また、忠衡は義経誅殺に反対しており、義経の死後、泰衡に対して反乱を起こした(或いは計画した)ために誅殺されたとも推測されている。通衡も忠衡と同様に義経と通じていた、加えて、反乱(若しくは反乱計画)に関わっていたため、殺害されたと考えることもできる。このような状況から、通衡も忠衡同様、義経保護を主張していたと考えることもできる。[要出典]
^ 義経の元服を伝えるに資料や伝承には、『平治物語』を初め、現行の能の演目として知られる『烏帽子折』、竜王町の義経「元服の池」、義経元服の「盥」、「烏帽子屋五郎太夫の屋敷跡」、元服の折に参拝した「鏡神社」(国の重要文化財)、その参道にある「烏帽子掛け松」などがある。
^ 妹の夫を「聟」と称する用法もあることから、義経が京都を離れた後の文治2年6月6日に常盤とともに捕らえられた義経の異父妹(父は一条長成)を有綱の妻とする保立道久[28]や細川涼一[29]の説もある。
^ 盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。
^ 同書では母親の常盤は絶世の美女とされており(『平治物語』『義経記』)、容姿が重視されて源義朝の側室となった。父親の義朝については、面識のあった佐藤兄弟の母が義経と対面した際、「こかうの殿をおさなめによきおとこかなと思ひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子かとおぼゆる(亡き左馬頭殿(義朝)は幼心にもよい男だと拝見しましたが、あなたは父上に比べて見劣りするけれども、そのお子かと思われます)」と述べている(『平治物語』京師本)。
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