源義朝
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^ 元木泰雄は、義朝の弟義賢が先に任官していたのに義朝は無位無官であったため、廃嫡されて東国に下ったと見ている[2]高橋典幸も元木と同様の見解で義朝が嫡子でないと主張している[3]永井晋はその著書で義朝を為義の庶長子と記載している[4]
^ 房総半島内に加えて相模国など。
^ 右馬助の兼任替え。『兵範記』では右馬権頭にして昇殿を聴される。
^ 従来通説では、義朝と清盛は対等の武家棟梁と認識されていたが、近年の研究では必ずしもそうではなく、両者の間に大きな格差が保元以前に存在していたことが指摘されている。清盛と義朝との間に官位の格差が元々あったことが述べられているが、保元の乱後の大内裏造営において両者の間に大きな経済格差が存在していたことが指摘されている。この造営において清盛が仁寿殿、頼盛が貞観殿、教盛が陰明門、経盛が淑景舎と重要な建物を造営したのに対して、義朝は北廊を担当したに過ぎない[7]
^ 義朝が左馬頭となることによって、東国武士との間の主従関係を強化することが可能となったという見方もある[7]
^ 従来「源氏」と称する武士たちは義朝に従属するものとみなされていた。だが実は光保は二条天皇側近の立場として独自の意志で信頼に与力し、光保の参戦には義朝の意向が働いていたわけではない。また、季実と重成は義朝の同族支配下にあるものではなく義朝の同盟者であった。武門源氏が全て河内源氏の当主に従属するのが当然という見方は鎌倉幕府成立以降の観念である[2]
^愚管抄』の記述を元に義朝の縁組の申し入れに対して信西が「我が子は学者であるので、武門の家の聟には相応しくない」と拒否しながら同じ武家である平家と縁組したことなど、あからさまな冷遇を受けたことに対して義朝が不満を募らせたといわれる説。
^ 縁談に関しては、院近臣として四位五位くらいの地位にいた信西の子と、祖父の代から順調に昇進を重ね自らは公卿一歩手前で、その弟達や子供もそれなりの官位を得ている清盛の家では釣り合いが取れているのに対して、為義はずっと受領にもなれず保元の乱直前に自らが受領それも下国の下野守となった義朝の家では信西の子とは家格的に釣合いが取れない(清盛と義朝の家が同等をみなされるのは鎌倉幕府成立以降の視点で当時は清盛と義朝の家格は同等のものではなかった)。その観点からすると義朝の縁談の申入れはかなりの無理を承知で申し入れたもので、信西の子と義朝の娘との婚姻の非成立と清盛の娘との縁談の成立が信西への遺恨に発展することは有り得ない。また、信頼に対する酷評は敗者としてのものであり、信頼の能力が実際に低いわけではなく、官位上昇も当時人事に関して発言力のあった信西の了承のもと行なわれていた可能性もあり、また信頼の官位昇進停止の原因はその上位者の官位の空きがなかったことであり、信西一人の妨害によるものではない、等が指摘されている[2]。ただし、縁談問題に対しては、義朝が婿にしようとした是憲は信西の子の中でも昇進が遅れており(保元3年末段階で30歳前後であったにもかかわらず従五位下少納言兼信濃守)、官位の釣り合いとしては全く問題はなく、縁談の不成立の原因は義朝側ではなく信西側に求めるのが妥当とする反論もある[9]
^ 「四位ニシテ播磨守ニナリテ云々」[8]
^ 孫の頼家も入浴中に襲撃されている。
^ ただし、山田邦和は論文の中で義朝を無能な人物であると厳しい評価を下している[13]。その中で保元の乱における後白河天皇方の最終目的は崇徳上皇と藤原頼長を生死を問わず確保することであったのに、全く見当違いの場所を捜索した結果、崇徳院と頼長は平安京の中心部を通って脱出に成功し、挙句の果てには戦闘終結後にもかかわらず「王権」の象徴である法勝寺を焼き払おうとしたこと[14]などを挙げ、義朝は10騎単位での小競り合いに長けている程度の人物で、政治的駆け引きが重要となる都での戦いではその馬脚を現したとしている。
^皇室伏見宮系(いわゆる旧皇族)の共通先祖にあたる。

出典^ a b 川合 2019, p. [要ページ番号]
^ a b c d e 元木 2004, p. [要ページ番号]
^ 高橋 2010, p. [要ページ番号]
^ 永井 2010, p. [要ページ番号]
^ 菱沼 2015, p. [要ページ番号]
^ 元木 2004, p. 75
^ a b c 野口 1998, p. [要ページ番号]
^ a b愚管抄
^ a b 古澤 2019, p. [要ページ番号]
^ a b 『平治物語』
^ 元木 2004, p. 212
^ 野口 1998, pp. 103?104
^ 山田 2009, p. [要ページ番号]
^ a b 『保元物語』
^ a b c d e兵範記

参考文献.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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安田元久『武士世界形成の群像』吉川弘文館、1986年。 


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