源義朝
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久寿2年(1155年)、為義の意向を受けて東国に下向し、勢力を伸ばしていた次弟の義賢を義平に討たせ(大蔵合戦)、対抗勢力を排除して坂東における地位を固めた。この後、義賢の復仇のため信濃国に下ってきた四弟の頼賢と合戦になりかけるなど、為義との対立は修復不可能な事態となった。大蔵合戦は都では問題にされておらず、その背景には武蔵守であった藤原信頼の黙認があり、摂関家に属する為義派への抑圧があったとも見られている[6]

坂東で勢力を延ばす際、義朝は当初は父が仕えていた摂関家寄りの姿勢を見せていたが、義朝の基盤である相模国等が鳥羽院の知行国になるなど、東国において勢力を伸ばすには義朝が鳥羽法皇に接近する必要があり、それが摂関家に仕える父とは距離を置くという結果に繋がったとの説もある[2]。そのため、義朝の東国での動きを牽制するために遣わされたのが次弟の義賢であるといわれる。やがて義賢も為義の嫡男の座を追われ、代わってその弟の頼賢が嫡男の座についていたとの見解もある[7]
保元の乱詳細は「保元の乱」を参照

保元元年(1156年)7月の保元の乱では崇徳院方についた父・為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち、後白河天皇方として東国武士団を率いて参陣した。平清盛と共に作戦の場に召された義朝は先制攻撃・夜襲を主張し、頭をかきむしりながら信西と共に躊躇する関白・藤原忠通に対して決断を迫った。攻撃の命が下ると、義朝は「(坂東での)私合戦では朝家の咎めを恐れ、思うようにならなかったが、今度の戦は追討の宣旨を受け、心置きなく戦うことができる」と官軍として戦えることに喜び勇んで出陣し、戦況を逐一報告するなど帝方の中核となって戦った。

乱は後白河天皇方が勝利し、敗者となった為義は義朝の元に出頭した。『保元物語』には、義朝が自身の戦功に替えて父の助命を訴えたが、信西によって却下され、父や幼い弟達を斬ることになる悲劇的な場面が詳しく描かれている。7月30日、義朝は船岡山村の辺りで為義と弟らを処刑した。父を殺した義朝は「ヲヤノクビ切ツ」と世の誹りを受けたという[8]

乱後、恩賞として右馬権頭に任じられることになったが、不足を申し立てたため左馬頭[注釈 7]となった。義朝の助命嘆願にもかかわらず為義・頼賢ら親兄弟の多くが処刑され、また左馬頭の任官ですらも清盛と平家一門への待遇と比べて相当見劣りしていたことから@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}大いに不満を持ったとも言われていた。[誰によって?]

しかし清盛は少年の頃より親王にも等しい待遇を受け、11歳で元服と同時に叙爵されて従五位下、17歳にして既に従四位下にまで官位を上げ、保元の乱の10年前に正四位下となり公卿の地位の一歩手前にまで達しており、対して保元の乱の直前に叙爵されて従五位下・下野守となりようやく受領級となった義朝の地位にはもともと大きな開きがあり、恩賞の差に不満を抱いたという説はあまり妥当とはいえない[注釈 8]。左馬頭はその位階以上に武門にとってはそれこそ武家の棟梁にも比されるほどの重要な役職である[注釈 9]から、それへの任官は妥当、むしろ破格な恩賞であるという意見も近年では提示されている。[誰によって?]また、為義の処刑はあくまでも彼らを謀反人と断じた朝廷の裁決であり、清盛もまた敵側についた同族を朝命により処刑しており、このことへの義朝の不満が平治の乱につながったという見方にも疑問が呈されている[2]。その一方で、平将門の乱における藤原秀郷前九年の役における高祖父頼義などの例から、謀反の鎮圧に対する武家への恩賞は現在の本人の官位にかかわらず「越階」「希望する国の受領への任命」「子弟・郎党に対する官位の授与」とするのが先例として成立しており、義朝もその先例に倣って四位への越階や豊かな国の受領への任命、長男の義平らに対する任官は期待していた筈で、それらを何も得られなかった以上、むしろ冷遇された恩賞であったとする反論も出されている[9]
平治の乱源義朝(右上の弓を射っている人物、歌川芳虎画『元平治合戦源義朝白河殿夜討之図』東京都立図書館蔵)詳細は「平治の乱」を参照

平治元年12月9日1160年1月19日)、義朝は、源光保季実重成[注釈 10]らと共に藤原信頼と組んで後白河院の信任厚い信西らがいると目された三条殿を襲撃した。

平治の乱の原因として旧来の説では先に触れたような『平治物語』の記述を元に、保元の乱後の清盛との恩賞の格差に義朝が不満を抱いたという源氏と平家の因縁説、縁談不成立などによる信西への冷遇怨恨説[注釈 11]、その結果、同じく信西を憎んでいた信頼と組んだなどと義朝の動機を中心に説明されることが多かった。また信頼も「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし。ただ朝恩にのみほこりて」と『平治物語』で酷評されており、『愚管抄』でも同様である。しかし、そのような通俗的理解は竹内理三元木泰雄の研究により見直されている[注釈 12]。また、信頼に従った武士達も義朝のみではなく、独立して各権門に仕えるそれぞれの武家が自分の意志で信頼に与したのであって、義朝の指示で信頼方についたわけではない。

平治の乱の原因は実際には後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派共に反信西グループがいたこと、それらを後白河院がまとめきれなかったことにあるとされる。[誰によって?]

義朝と信頼の関係も信西憎しの一点で結びついたという通説は理解しやすいものの、義朝が信頼に従ったのは信頼は義朝が南関東で勢力を拡大していた時の武蔵守で、その後も知行国主であり、義朝の武蔵国への勢力拡大も突然の従五位下・下野守への除目も信頼らの支援があってのことと思われる。信頼はそうした武蔵国を中心とした地盤から、保元の乱により摂関家家政機構の武力が解体した後においてはそれに代わって関東の武士達を京の公家社会に供給できる立場にあった。

三条殿を襲撃し逃れた信西を倒して以降、信頼が政局の中心に立った。信西追討の恩賞として義朝は播磨守に任官[注釈 13]し、嫡男の頼朝は右兵衛佐に任じられた。しかし信西を倒したことによって元々信西憎しの一点だけで結びついていた後白河院政派と二条天皇親政派[要出典]は結束する理由もなくなり空中分解を始める。そして今度は信頼と二条天皇親政派との反目が発生した。離洛していた清盛は信頼に臣従するそぶりを見せて都に戻るがその後、二条天皇親政派らの策謀によって二条天皇が清盛の六波羅邸に脱出し形勢不利を察した後白河院も仁和寺に脱出した。この段階で義朝は全ての梯子を外された形となった。

当初信頼らに同心していた源光保は元々二条天皇親政派であったため信頼方から離反、源頼政も信頼陣営から距離を置き廷臣たちも続々と六波羅に出向いたため清盛は官軍の地位を獲得した。こうして一転賊軍となった信頼・義朝らは討伐の対象となり、ついに12月27日2月6日)に京中で戦闘が開始される。平家らに兵数で大幅に劣っていた義朝軍は壊滅した。
敗走・最期襲撃された湯殿跡(愛知県美浜町法山寺野間大坊の境内にある義朝の墓

その後、信頼を見捨てた義朝は子の義平・朝長・頼朝、大叔父の義隆(陸奥六郎)・平賀義信源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清斎藤実盛渋谷金王丸らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、その途上で度重なる落武者への追討隊との戦闘で、朝長・義隆・重成は深手を負い命を落とした。また一行からはぐれた頼朝も捕らえられ、義平は別行動で北陸または東山道を目指して一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、生存していた義朝の郎党・志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗した。

馬も失った義朝は裸足で尾張国知多郡野間(現在の愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、政清の舅で年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて[注釈 14]殺害された[10]。享年38。政清も酒を呑まされ殺害された。京を脱出して3日後の事であった。『愚管抄』によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首された後に政清は自害したとされる。年が明けた正月9日、両者の首は獄門にかけられた。

伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の伝承にちなんで多数の木刀が供えられている。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池がある。

平賀義信と斎藤実盛は無事に落ち延びることに成功した。義信は後に頼朝の挙兵に従って鎌倉幕府の有力御家人として生涯を全うし、一方実盛は平家方について源氏方と戦うことになる。


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