源義仲
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5月11日、義仲は倶利伽羅峠の戦いで10万ともいわれる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く加賀国での篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。6月10日には越前国、13日には近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦することになる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」といういささか恫喝めいたものだった。7月22日に義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなる。また、源行家が伊賀方面から進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫り、摂津国多田行綱も不穏な動きを見せるようになる。25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。

なお、義仲の名が『玉葉』に初めて登場するのは倶利伽羅峠の戦いについて記した寿永2年(1183年)5月16日条であり、その直前の4月25日条では東国・北国の反乱の中心を頼朝・武田信義としており、無位無官の義仲は京で存在を知られていなかった。義仲の上洛が迫った7月2日条でも、今回は義仲・行家のみが上洛して頼朝は上洛しないと記されており、著者の九条兼実は源氏勢力を一体視している。このことが入京後の義仲を頼朝代官とする見方を生むことになる。
入京

7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家とともに蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた[注釈 8]。また2人の風体のみすぼらしさは「夢か、夢に非ざるか」と貴族を仰天させた[8]

30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった[9]。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した[10]

8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられる[11]。『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予守に、行家が備前守に遷ったとしているが、この時点では義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌避した記録は見られない[12]。行家は13日に備前守に遷ったが、今度はこれに不満を示した義仲が15日に伊予守に遷り、再び行家が義仲と差があると不満を示して閉門するに至った。
皇位継承問題への介入

後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった[12]。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てた。

しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側が受け入れるはずもなかった。摂政・九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」[13] と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。朝廷では義仲を制するための御占が数度行われた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという[14][注釈 9]

いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのである。
治安回復の遅れ

また義仲は京都の治安回復にも期日を要した。養和の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。9月になると「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」[15] という有様で、治安は悪化の一途をたどった。京中守護軍は義仲の部下ではなく、行家や安田義定、近江源氏美濃源氏摂津源氏などの混成軍であり、義仲が全体を統制できる状態になかった。

『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米がなければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。

後白河法皇は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」[16] と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。
後白河法皇への抗議

義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」というもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」[17] と朝廷を大いに喜ばせるものであった。


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