義忠の死後、家督継承が為義、義朝、頼朝と継承されたとするのは、頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く前後あたりからのことであり、為義在世中は棟梁として存在していたかは定かではない。一部に義家が後継指名をしていたとする史料があるが、後世の作で当時の史料からは確認できない。また為義と同じく、長兄の源義信や、義忠の次男の源義高、義家の三男の源義国らも当時、河内源氏の勢力の一部を継承しており、義忠後継を自任していたことがわかっている。また、実際には河内源氏および清和源氏はそれぞれの系統が独自の道を歩み、為義の時点では各系統の上に立つ「嫡流」というものは存在しなかったという見解もある[28]。
為義と同時期に勢力のあった河内源氏の一族
源義国 - 従五位下加賀介。義家の三男。新田氏・足利氏の祖。義重・義康の父
源義信 - 従四位下左兵衛佐。義親の長男
源経国 - 義忠の長男
源義高 - 従四位下左兵衛権佐。義忠の次男
源義光 - 従五位下刑部少輔。義家の三弟
源義時 - 左兵衛尉。義家の六男。河内源氏本拠地の石川荘を相続
また、為義が棟梁であったとしても、その後継者が義朝であったという事実も確認できる史料は無い。むしろ、保延5年(1139年)の体仁親王(後の近衛天皇)の立太子で弟の義賢が東宮帯刀に任じられていたにもかかわらず、息子である義朝は未だ無位無官のまま東国に下向しているのは、為義が義朝を廃嫡して義賢を後継者とした結果と考えられる。ところが、義賢は殺人事件への協力によって解官されたためにやむなく後継者から外さざるを得なくなった一方で、廃嫡された義朝は東国で勢力を伸ばして院勢力とも結びついて独自の勢力を築き始めた。これに危機感を覚えた為義は義賢も東国に下向させて秩父党や児玉党の協力を得て義朝と対抗しようとした。
その結果、義朝父子は大蔵合戦で義賢を、保元の乱で為義と新たな後継者となった頼賢を滅ぼして実力でその地位を奪い取ったのが実態であったとみられる。しかし、義朝が棟梁になった経緯とその地位が平治の乱までのわずか3年間であったことが、その後の治承の乱において義朝の後継者として鎌倉に拠点を置いた頼朝ではなく、義賢の後継者である義仲や今だ健在であった為義の実子である行家らを棟梁とみなす余地を残した。
治承の乱の過程において、諸源氏からなる京武者の統合に失敗した義仲・行家に対して、東国にて独自の勢力の確立に専念した頼朝が最終的に分裂していた河内源氏・清和源氏を軍事力をもって排除もしくは自己の統制下におくことで、名実ともに源氏の棟梁、「嫡流」の地位を確立させることになったと考えられている[29]。
系譜
父:源義親または源義家
母:不詳
妻:白河院近臣藤原忠清