源為義
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翌久寿2年(1155年)には頼賢も春日社の訴えで解官された[26]。『兵範記』保元元年7月10日条によれば、鳥羽法皇の勘責により一族がまとめて籠居させられたという。この時期、院周辺では美福門院・藤原忠通・信西らによって藤原忠実・頼長を追い落とす工作が進行しており、為義一族に対する圧迫もそれに連動したものだったと考えられる。東国に下向していた義賢も、大蔵合戦で義朝の子・源義平によって滅ぼされた。

保元元年(1156年)、保元の乱では、為義は頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の義朝、平清盛らと戦うが敗れる。敗戦後、東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏し、出家する。義朝は自らの戦功に代えて、為義と弟たちの助命に奔走するが許されず、一族の未来を義朝に託して7月30日に義朝の手で斬首された(場所は『兵範記』では船岡山、『保元物語』では七条朱雀)。享年61。

中央での栄達には縁がなかったが、経済的には河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壷井)の河内源氏本拠地伝来の財産があり、義家の六条堀河第を受け継いで裕福だった。また子にも恵まれ、養子猶子も多く存在した。為義の娘の一人・鳥居禅尼熊野水軍の指導者・熊野新宮別当家の行範(19代別当)に嫁ぎ、範誉(那智執行)・行快(22代別当)・範命(23代別当)らを産んでいる[27]
河内源氏の棟梁に関して

義忠の死後、家督継承が為義、義朝、頼朝と継承されたとするのは、頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く前後あたりからのことであり、為義在世中は棟梁として存在していたかは定かではない。一部に義家が後継指名をしていたとする史料があるが、後世の作で当時の史料からは確認できない。また為義と同じく、長兄の源義信や、義忠の次男の源義高、義家の三男の源義国らも当時、河内源氏の勢力の一部を継承しており、義忠後継を自任していたことがわかっている。また、実際には河内源氏および清和源氏はそれぞれの系統が独自の道を歩み、為義の時点では各系統の上に立つ「嫡流」というものは存在しなかったという見解もある[28]

為義と同時期に勢力のあった河内源氏の一族

源義国 - 従五位下加賀介。義家の三男。新田氏足利氏の祖。義重義康の父

源義信 - 従四位下左兵衛佐。義親の長男

源経国 - 義忠の長男

源義高 - 従四位下左兵衛権佐。義忠の次男

源義光 - 従五位下刑部少輔。義家の三弟

源義時 - 左兵衛尉。義家の六男。河内源氏本拠地の石川荘を相続

また、為義が棟梁であったとしても、その後継者が義朝であったという事実も確認できる史料は無い。むしろ、保延5年(1139年)の体仁親王(後の近衛天皇)の立太子で弟の義賢が東宮帯刀に任じられていたにもかかわらず、息子である義朝は未だ無位無官のまま東国に下向しているのは、為義が義朝を廃嫡して義賢を後継者とした結果と考えられる。ところが、義賢は殺人事件への協力によって解官されたためにやむなく後継者から外さざるを得なくなった一方で、廃嫡された義朝は東国で勢力を伸ばして院勢力とも結びついて独自の勢力を築き始めた。これに危機感を覚えた為義は義賢も東国に下向させて秩父党や児玉党の協力を得て義朝と対抗しようとした。

その結果、義朝父子は大蔵合戦で義賢を、保元の乱で為義と新たな後継者となった頼賢を滅ぼして実力でその地位を奪い取ったのが実態であったとみられる。しかし、義朝が棟梁になった経緯とその地位が平治の乱までのわずか3年間であったことが、その後の治承の乱において義朝の後継者として鎌倉に拠点を置いた頼朝ではなく、義賢の後継者である義仲や今だ健在であった為義の実子である行家らを棟梁とみなす余地を残した。

治承の乱の過程において、諸源氏からなる京武者の統合に失敗した義仲・行家に対して、東国にて独自の勢力の確立に専念した頼朝が最終的に分裂していた河内源氏・清和源氏を軍事力をもって排除もしくは自己の統制下におくことで、名実ともに源氏の棟梁、「嫡流」の地位を確立させることになったと考えられている[29]
系譜

父:
源義親または源義家

母:不詳

妻:白河院近臣藤原忠清娘

長男:源義朝


妻:六条大夫重俊娘

次男:源義賢

三男:源義憲(義広)


妻:源基実娘

四男:源頼賢

五男:源頼仲

六男:源為宗


妻:賀茂成宗娘

七男:源為成


妻:江口遊女

八男:源為朝

九男:源為仲


妻:不詳

女子:鳥居禅尼 - 行範室

十男:源行家


生母不明

十四男:源維義?

男子:源頼定?

男子:源正親?

男子:仙覚

男子:乙若

男子:亀若

男子:鶴若

男子:天王

女子:美濃局

女子:佐々木秀義

女子:藤原光隆


脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『尊卑分脈』によれば義親の男子は、為義を含めて6人いる。義親の正室は肥後守・高階基実の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され、贖銅の刑を科された。角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だったのではないかと推測している。為義の母の項目には「同義国、中宮亮有綱女」とあるが、これは義家の妻(義国・義忠の母)が為義を養育していたことを示すものと考えられる[5]。また、為義を義家の四男とする説[3]を採るならば、「同義国、中宮亮有綱女」の記述は養母ではなく実母ということになる。
^ 『尊卑分脈』の義忠傍注によれば義綱は冤罪であり、真犯人は義綱の弟の義光とされている。ただし、この『尊卑分脈』の記述は同時代史料である『殿暦』と比べて齟齬が多く、信頼性に劣るとされる。
^ 追討使に選ばれたことから元木は為義が義忠の後継者とされていた『尊卑分脈』の記述を妥当とし、義親派の反発を和らげる策であったのではとした[6]
^ 覚鑁に出した書状の署判は「正六位上源朝臣為義」で官名がない。為義は書状の中で「院のきそくのあしく候へハ、よにはゝかりて何事もしらぬやうにて候也」と苦境を訴えている。
^ 康治2年(1143年)、摂関家家人の源頼盛と源惟正が私闘を起こすと、為義は忠実の命を受けて頼盛らを拘禁した[19]。一方で、為義が逆に制裁を受けるケースもあり、仁平元年(1151年)には、頼長の命を受けた源頼憲によって為義の摂津旅亭が焼かれている[20]
^ 後年、源通親の推挙で大江広元が左衛門大尉に任じられた際、九条兼実は為義の例を引き合いに出し「上古大尉に任ず。近代頗る希」と記している[23]
^ 熱田大宮司季範の娘を母とする頼朝は久安3年(1147年)生まれなので、義朝の上京は遅くても久安2年(1146年)と見られる。

出典^ 北酒出本『源氏系図』、長楽寺本『源氏系図』、妙本寺『源家系図』、『佐竹家系譜』
^ 天仁2年2月17日条の「義家朝臣四郎男為義」
^ a b 佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』第45巻、山形県立米沢女子短期大学、2009年12月、19-29頁、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}CRID 1050001202927787264、ISSN 02880725。


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