源氏物語
[Wikipedia|▼Menu]
『源氏物語』の場合は冊子の標題として「源氏物語」ないしそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。こうした経緯から、現在において一般に『源氏物語』と呼ばれているこの物語が、書かれた当時の題名が何であったのかは明らかではない。古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。

「源氏の物語」「光源氏の物語」「光る源氏の物語」「光源氏」「源氏」「源氏の君」などとする系統。

「紫の物語」「紫のゆかり」「紫のゆかりの物語」などとする系統。

これらはいずれも源氏(光源氏)または紫の上という主人公の名前をそのまま物語の題名としたものであり、物語の固有の名称であるとはいいがたい。また、執筆時に著者が命名していたならば、このようにさまざまな題名が生まれるとは考えにくいため、これらは作者によるものではない可能性が高いと考えられている[31]

紫式部日記』『更級日記』『水鏡』などこの物語の成立時期に近い主要な文献に「源氏の物語」とあることなどから、物語の成立当初からこの名前で呼ばれていたと考えられているが、作者の一般的な通称である「紫式部」が『源氏物語』(=『紫の物語』)の作者であることに由来するならば、そのもとになった「紫の物語」や「紫のゆかりの物語」という名称はかなり早い時期から存在したとみられ、「源氏」を表題に掲げた題名よりも古いとする見解もある。「紫の物語」といった呼び方をする場合には、現在の源氏物語54帖全体を指しているのではなく、「若紫」を始めとする紫の上が登場する巻々(いわゆる「紫の上物語」)のみを指しているとする説もある。

河海抄』などの古伝承には「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在し、その中でもっとも優れているのが「光源氏の物語」であるとするものがある。しかし現在、「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することはできないため、池田亀鑑などはこの伝承を「とりあげるに足りない奇怪な説」に過ぎないとして事実ではないとしている[32]。対して和辻哲郎は、「現在の源氏物語には読者に現在知られていない光源氏についての何らかの周知の物語が存在することを前提として初めて理解できる部分が存在する」として、「これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う」と述べている[33]

このほか、「源語(げんご)」「紫文(しぶん)」「紫史(しし)」などという漢語風の名称で呼ばれていることもあるが、これらは漢籍の影響を受けたものであり、それほど古いものはないと考えられている。池田によれば、その使用は江戸時代をさかのぼらないとされる[34]
構成源氏物語絵巻』より、『源氏物語』第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)全54帖のあらすじは「源氏物語各帖のあらすじ」を、登場人物は「源氏物語の登場人物」を参照。

『源氏物語』は写本・版本により多少の違いはあるが、約100万文字・22万文節[35]、400字詰め原稿用紙約2,400枚[36]、500名近くの登場人物[37]、70年あまりの出来事が描かれ、和歌795首を詠み込み、典型的な王朝物語とされる[注 16]

日本最古の物語竹取物語』(平安前期・作者不詳・現存)や日本最古の長編物語うつほ物語』(平安中期10世紀後半・作者不詳・現存)[40]がある一方で、マスメディアや近畿各府県の公的機関が、「世界最古の長編小説」、「日本最古の長編小説」という表現をたびたび使用している『源氏物語』は[注 17]、『うつほ物語』の全20巻に対して全54帖[45][46]、文字数で『うつほ物語』の約1.5倍で[47]、その長さゆえに『源氏物語』は以下の通り全体をいくつかに分けて取り扱われることが多い。(源氏物語の「作者」、「巻数」も参照)
三部構成説

母系制が色濃い平安朝中期(おおむね10世紀ごろ)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生を描く。通説とされる「三部構成説」の各部のメインテーマを以下に示す。

第一部光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生
第二部愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様
第三部源氏没後の子孫たちの恋と人生

平安時代の日本文学史においても、『源氏』以前以降に書かれたかどうかによって、物語文学は「前期物語」と「後期物語」とに区分され[48]、あるいはこの『源氏』のみを「前期物語」および「後期物語」と並べて「中期物語」として区分[49]する見解もある。後続して成立した王朝物語の大半は『源氏』の影響を受けており、後世しばらくは『狭衣物語』と並べ、「源氏、狭衣」を二大物語と称した。後者はその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。こうした『源氏物語』の影響は文学に限定されず、原典成立後の平安時代末期に物語を画題とした日本四大絵巻のひとつ『源氏物語絵巻』が制作された。その後も『源氏』を画題とした『源氏絵』は、版本『絵入源氏物語』、また『源氏物語図屏風』などの屏風などにさまざまな画派によって描かれた。また、『源氏物語』意匠の調度品、さらに着物香の図(源氏香)などにもその影響がみえ、のちの文化や生活に多大な影響を与えたとされている。また『源氏物語』は中国では「日本の『紅楼夢』」と称されることがよくあり、『金瓶梅』と並ぶ比較文学研究の題材となっている。源氏物語の研究は「源学」と呼ばれている[50]
二部構成説

白造紙』『紫明抄』あるいは『花鳥余情』といった古い時代の文献には、宇治十帖の巻数を「宇治一」「宇治二」というようにそれ以外の巻とは別立てで数えているものがあり、このころ、すでにこの部分をその他の部分とはわけて取り扱う考え方が存在したと見られる。

その後、『源氏物語』全体を光源氏を主人公にしている「幻」(「雲隠」)までの『光源氏物語』とそれ以降の『宇治大将物語』(または『薫大将物語』)の2つにわけて、「前編」「後編」(または「正編」(「本編」とも)「続編」)と呼ぶことは古くから行われてきた。

与謝野晶子は、それまでと同様に『源氏物語』全体を2つにわけたが、光源氏の成功・栄達を描くことが中心の陽の性格を持った「桐壺」から「藤裏葉」までを前半とし、源氏やその子孫たちの苦悩を描くことが中心の陰の性格を持った「若菜」から「夢浮橋」までを後半とする二分法を提唱した[51]

その後の何人かの学者はこの2つの二分法をともに評価し、玉上琢弥は第一部を「桐壺」から「藤裏葉」までの前半部と、「若菜」から「幻」までの後半部にわけ、池田亀鑑は、この2つを組み合わせて『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」までの第一部、「若菜」から「幻」までの第二部、「匂兵部卿」から「夢浮橋」までの第三部の3つに分ける「三部構成説」を唱えた。「三部構成説」はその後広く受け入れられるようになった。

このうち、第一部は武田宗俊によって成立論(いわゆる玉鬘系後記挿入説)と絡めて「紫上系」の諸巻と「玉鬘系」の諸巻に分けることが唱えられた。この区分は、武田の成立論に賛同する者はもちろん、成立論自体には賛同しない論者にもしばしば受け入れられて使われている[注 18]

第三部は、「匂兵部卿」から「竹河」までのいわゆる匂宮三帖と、「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖にわけられることが多い。

上記にもすでに一部出ているが、これらとは別に連続したいくつかの巻々をまとめて

帚木、空蝉、夕顔の三帖を帚木三帖

玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱の十帖を玉鬘十帖

匂兵部卿、紅梅、竹河の三帖を匂宮三帖

橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋の十帖を宇治十帖

といった呼び方をすることもよく行われている。

巻々単位とは限らないが、「紫上物語」「明石物語」「玉鬘物語」「浮舟物語」など、特定の主要登場人物が活躍する部分をまとめて「○○物語」と呼ぶことがある[52]
四部構成説

三部構成説に対して、以下のような四部構成説も唱えられている。論者によって区切る場所や各部分の名称がさまざまに異なっている[53]

提唱者第一部第二部第三部第四部
藤岡作太郎正編前紀
桐壺から朝顔正編中紀
少女から藤裏葉正編後紀
若菜から竹河続編
橋姫から夢浮橋
久松潜一
実方清第一期
桐壺から明石第二期
澪標から藤裏葉第三期
若菜から幻第四期
匂宮から夢浮橋
重松信弘正編青年期
桐壺から明石正編中年期
澪標から藤裏葉正編晩年期
若菜から竹河続編
匂宮から夢浮橋
森岡常夫第一期
桐壺から朝顔第二期
少女から藤裏葉第三期


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:335 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef