源氏物語
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第1帖?第41帖は「光源氏」を軸に描かれ、第42帖?第54帖は「」を軸に描かれる。なお、執筆された11世紀初頭は国風文化の最盛期で、時代を反映し、紫式部は自身の和歌や他者の物語作品と同じく、源氏物語の記述には漢字(漢文 万葉仮名・男手)ではなく平仮名(変体仮名・女手)を使用している[注 11]。(物語詳細は「源氏物語各帖のあらすじ」参照)

現代の一般的な小説や物語には見られない特色として、歌人としての紫式部の力量が全帖にわたり発揮される源氏物語には和歌795首が詠み込まれ、それらは飾りではなく、とりわけ男女間の事柄や話の核心部分などは、文章ではなく、和歌によって婉曲に描かれる場面も多く、品位と描写を両立させる手法がとられており、この和歌が理解できないと話の展開自体がわからない場面も少なくない[注 12]。文章でそれらが描かれる際も、直接的描写はほとんどなく、自然の変化や流行の事柄などに置き換え、それらに語らせるなどの手法で一定の品位を保ち婉曲に描かれ、話の把握にはこの間接的描写への理解が要求される[注 13]。源氏物語は、800首あまりから成る和歌集の側面を持つ物語とも言え、その鑑賞に和歌の理解は欠かせず、また、平安中期の政治、文化、常識、風習、社会制度に囲まれて生活する千年前の読み手(主に皇族・貴族階級)を対象にして書かれており、現代の読み手は、これらを知り理解することも物語の把握に必要となる[25][26]

源氏物語が完成した頃、紫式部の支援者藤原道長の権力に陰りが見え始めその腐敗政治への民衆の不満で社会が不安定化していたが[注 14]、源氏物語は初出当初より貴族を中心に好評を博し次々と写本が繰り返されて読まれた。当時、貴族階級の男女ともに和歌は必須で重要だったが、漢文については対照的で、漢文の読み書きができず漢籍や漢詩がわからない者が多かった女性貴族に対し[10]政治行政の公的文書は漢文で書かれたため[7]、男性貴族は漢文の読み書きが必須で漢籍漢詩の教養も重視された。そのため、国風文化の影響のもと『竹取物語』をはじめ主に平仮名(変体仮名)で書かれた物語作品は貴族女性やその子供向けの読み物として、漢籍漢詩そして和歌に比べて低く見られた時代で[10]、源氏物語も他の物語同様に平仮名(変体仮名)で書かれたが、紫式部の漢籍漢詩和歌への知識と見識の深さが随所に生かされ、それらの知識が必須の男性貴族からも学べるとして読まれ[10][28]一条天皇からも評価された[注 15]

その150年ほど後の平安時代末期、栄華を誇った貴族階級の没落と武士階級の台頭という時代の変わり目に、源氏物語は、「絵」と「詞書(説明文)」から成る「源氏物語絵巻」として絵画化された。現存する絵巻物のうち、徳川美術館五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず30ヵ国語を超える翻訳を通じて世界各国で読まれている[30]
題名紫式部和歌百人一首 57番より「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな」

写本は題名の記されていないものも多く、記されている場合であっても内容はさまざまである。『源氏物語』の場合は冊子の標題として「源氏物語」ないしそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。こうした経緯から、現在において一般に『源氏物語』と呼ばれているこの物語が、書かれた当時の題名が何であったのかは明らかではない。古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。

「源氏の物語」「光源氏の物語」「光る源氏の物語」「光源氏」「源氏」「源氏の君」などとする系統。

「紫の物語」「紫のゆかり」「紫のゆかりの物語」などとする系統。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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