希義の師僧であった土佐国の琳猷上人(りんゆうしょうにん)は、平家の目を恐れて葬儀もされずうち捨てられていた希義の死体を引き取って供養したという。文治元年(1185年)3月27日、上人は希義の鬢髪を首にかけて鎌倉を訪れ、頼朝と対面した。頼朝は「上人がおいでになった事は、亡き希義の魂が再び訪ねてきた事のようです」と賛辞を尽くしたと伝えられる。
同母兄である頼朝はその死をいたく悲しみ、大軍を派遣して蓮池・平田らを殲滅した後、希義の墓所として介良荘に西養寺を建立して菩提を弔った。寺名は希義の法名「西養寺殿円照大禅定門」に由来する。 希義の没年に関する記載は、文献によって次のように異なる。 墓所として建立された西養寺
没年について
寿永元年(1182年) - 『吾妻鏡』寿永元年9月25日条。
治承4年(1180年)12月1日 - 『延慶本平家物語』。
月日は特定できないものの治承4年(1180年)に殺害されているとの記載 - 『尊卑分脈』、『平治物語』。
墓所伝源希義墓塔(高知市介良)
このほか、高知県高知市横浜東町には希義を祀った聖神社がある。
系譜
父:源義朝
母:由良御前 - 藤原季範娘
妻:平田継遠の娘?
生母不明
男子:源隆盛
後裔氏族
土佐吉良氏天正期に記された『吉良物語』によると、希義の遺児・源希望が頼朝に取り立てられ、吉良荘(現 高知県高知市春野町弘岡上周辺)を与えられたと伝えられている。その末裔が戦国時代の土佐七雄の1つの土佐吉良氏となったとされる。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『尊卑分脈』には隆盛の名が見えるのみで、希望の記載はない。
^ 『尊卑分脈』はこの五名を隆盛の子息(希義の孫)として記載するが、『分脈』脇沢本・前田本・内閣文庫本においては隆盛の名が見えず、代わってこの五名を希義の子息とする。
^ 『平治物語』(岩波書店新古典大系所収)に「おじの朝忠に搦めとられ」とある。新古典大系の注釈に朝忠=範忠とある。
^ 『平治物語』(岩波書店新古典大系所収)には、まだ正式な「名」は無かったが名乗りがないと流刑にはできないので、流刑にする際「希義」という名が与えられた、と記されている。
出典^ a b c 『清?眼抄』永暦元年三月十一日条。
^ a b c d 『吾妻鏡』寿永元年9月25日条。『現代語訳吾妻鏡』第1巻114 - 115頁。
^ 『 ⇒春野町史』98頁。
^ 河内祥輔『頼朝の時代 : 一一八〇年代内乱史』(平凡社、1990年)
^ ⇒西養寺跡無縫塔(高知市ホームページ)。
参考文献
『清?眼抄』(せいかいがんしょう)永暦元年三月十一日条、鎌倉時代。
五味文彦・本郷和人『現代語訳吾妻鏡』第1巻、吉川弘文館、2007年。
春野町史編纂委員会編『春野町史』春野町発行、1976年。
『日本歴史大系 高知県の地名』(平凡社)高知市西養寺跡項
下石敬太郎「土佐国の治承寿永・内乱」(『古代文化』70巻1号、2018年)