注記のないものは『六国史』による。
天長5年(828年) 日付不詳:臣籍降下(源朝臣)[4]
天長8年(831年) 2月7日:元服
天長9年(832年) 正月7日:従三位(直叙)。3月26日:美作守[4]
天長10年(833年) 8月25日:参議。11月1日:治部卿、美作守如故
承和元年(834年) 2月5日:中務卿
承和5年(838年) 正月13日:兼播磨守、中務卿如故
承和7年(840年) 8月8日:辞参議(淳和上皇服喪)、食封100戸
承和9年(842年) 7月:辞官(嵯峨上皇服喪)。9月:復本官
承和14年(847年) 正月12日:参議
承和15年(848年) 正月13日:兼尾張守
嘉祥2年(849年) 正月13日:中納言[4]。正月:辞官(母服喪)。3月:復本官
嘉祥3年(850年) 4月11日:帯剣。4月17日:正三位
仁寿2年(852年) 8月:兼右兵衛督、止中務卿[4]
仁寿3年(853年) 正月:兼左兵衛督[4]
斉衡4年(857年) 6月18日:辞左兵衛督[4]
天安2年(858年) 11月21日:右近衛大将
貞観元年(859年) 12月21日:大納言
貞観5年(863年) 正月3日:薨去(正三位大納言兼右大将)、贈従二位
系譜(百済王教俊の娘) - 尚侍
生母不詳の子女
男子:源包
男子:源宥
男子:源至
男子:源精
男子:源唱
脚注^ 『日本三代実録』貞観5年正月3日条の薨伝に記された没年齢49歳より逆算。
^ 源定 。コトバンク