満蒙開拓移民
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運よく貨車を乗り継いで、長春瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出した[10]。孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていった[10]。満洲に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち上述のように8万人を開拓団員が占める[11]。満洲での民間人犠牲者の数は、東京大空襲広島への原爆投下沖縄戦を凌ぐ[11]。これほど犠牲者を出した敗戦時の日本軍の満蒙政策とその放棄であったが、大江志乃夫によれば、関東軍上級将校の自決者の中で満蒙居留民に詫びる遺書をしたためたのは上村幹男ただ一人であったという[12]

内地に生還した元開拓移民も、引き揚げ後も生活苦にあえぎ、多くが国内開拓地に入植したが、南アメリカへの海外移民になった者もいた[13]

前記の通り、中国人に買われた孤児や婦人が約1万人いたため、中国残留日本人問題となった[13]。この帰還は、1972年(昭和47年)の日中国交正常化から21世紀まで続く現代的な問題である[13]

開拓団員と義勇隊員併せて3万7000人の移民を送り出した長野県[14]内に満蒙開拓平和記念館(同県下伊那郡阿智村)がある[6]。同記念館は、2014年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動を行った[6]黒竜江省方正県大羅密村の最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩で逃れてきたが「開拓団民はみなぼろを着て、女性は丸刈りだった。生活は苦しく、中国人に嫁いで子供を産み、何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている[6]
開拓民の出身地

満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約3万4千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第二位の山形県の2.4倍であった[15]

満蒙開拓移民都道府県順位[16] 開拓団義勇軍合計人口比
1位長野県長野県長野県長野県
2位山形県広島県山形県山形県
3位宮城県山形県熊本県高知県
4位熊本県新潟県福島県香川県
5位福島県福島県新潟県宮城県
6位岐阜県静岡県岐阜県岐阜県
7位東京都岡山県広島県石川県
8位高知県石川県東京都熊本県
9位秋田県栃木県高知県秋田県
10位群馬県山口県秋田県奈良県

背景

日本の対満政策における治安維持の方針として、兵力増進による地域的治安の保持、兵匪を警備等に雇う兵工政策の他に、農業集団移民を1?2年間屯墾義勇組織として治安維持に当たらせる屯田移民政策が考案されていた[17][18][19]。軍事移民により、財政負担を減らせるとされていた[20]
費用案移民のポスター。政府の補助について記載がある

中島仁之助の論文「我が農業と満蒙移民」より[20][21]

土地購入費(二十五エーカー)…一千円

家屋…二百円

農具その他必要品…二百円

生活費(移住後一年間)…四百円

渡満費(一人当り五十円)…二百円

年表

1925年 - 教育者の
加藤完治、農民の朝鮮半島への実験移民始める。山形県立自治講習所(藤井武が1915年に設立)所長だった加藤は農地のない農村の次男・三男らの窮状を知り、開拓移民に活路を期待した[22]

1929年 - 世界恐慌

1930年 - 昭和恐慌。農村不況が深刻化

1931年 - 満洲事変勃発を契機に移民政策が活発化

1932年 - 移民推進派の加藤完治、石原莞爾東宮鉄男らが出会い、退役軍人500名による満洲への試験移民始まる[22]

1936年 - 満洲農業移民百万戸移住計画が閣議決定(広田弘毅内閣)。二十カ年百万戸送出計画策定。移民が本格化

1937年 - 日中戦争勃発で成人移民の確保が困難になる。年間送出実績約6000戸。

1938年 - 満蒙開拓青少年義勇軍が制度化。満洲青年移民募集始まる

1940年 - 年間送出実績数約1万戸超で、計画期間中最多

1941年 - 移民実績総計約4万6000戸

1945年 - 送出移民総数約27万人。最多は長野県出身約3万8000人、山形県出身約1万7000人(山形は石原莞爾の出身地でもある)。青少年義勇軍は約8万6000人。終戦時の在満日本人約22万人中、死亡・行方不明約8万2000人、ソ連抑留約3万6000人。

入植の実態

満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」を理由に既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、満洲拓殖公社がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ日本人開拓移民を入植させる政策が行われた。およそ2000万ヘクタールの移民用地が収容された(当時の「満洲国」国土総面積の14.3%にあたる)。日本政府は、移民用地の買収にあたって国家投資をできるだけ少額ですまそうとした。1934年(昭和9年)3月、関東軍参謀長名で出された「吉林省東北部移民地買収実施要項」では、買収地価の基準を1ヘクタールあたり荒地で2円、熟地で最高20円と決めていた。当時の時価の8%から40%であった。このような低価格での強権的な土地買収は、吉林省東北部のみで行われたのではなく、満洲各地で恒常的に行われた。浜北省密山県では全県の私有地の8割が移民用地として取り上げられたが、買収価格は時価の1割から2割であり、浜江省木蘭県徳栄村での移民用地の買収価格は、時価の3割から4割であった。そのうえ土地買収代金はなかなか支払われなかった[23]。このように開拓民が入植した土地の6割は、地元中国人が耕作していた土地を強制的に買収したものであり、開拓地とは名ばかりのものであった。そのため日本人開拓団は土地侵略の先兵とみなされ、初期には反満抗日ゲリラの襲撃にあった。満洲国の治安が確保されると襲撃は沈静化したが、土地の強制買収への反感は根強く残った[24]

満洲国は、日本の本土の延長である「外地」ではなく、日本政府の承認した一国家(日本から見て「外国」)であった。移住した日本人開拓団員たちは開拓移民団という日本人社会の中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった(満洲国に国籍法は存在せず、満洲国籍は存在しなかった)。そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の地元住民たちと交流することはあっても現地人と同化しなかった。開拓民は、役場と農協を兼ねる団本部を中心に、学校、神社、医療施設、購買部を中心とする、日本人コロニーを形成しており、コロニー内で生活が完結していた。学校も民族ごとに別々に設けられていた。そのため中国人集落と接しながらも、在地社会との接触は限られていた。また、一戸あたり10町歩から20町歩の広大な農地を割り当てられたが、これを自家のみで耕作するのは困難であり、結局は現地労働者(その土地を元来耕作していた農民を含む)を「苦力」として雇ったり、小作に出したりという、地主的経営にならざるを得なかった。「五族協和」が唱えられながらも、「地主ー小作関係」に民族問題が絡み合うことになり、「五族協和」は実現困難だった[24]

満洲開拓政策基本要綱」は「第一.基本方針」「第二.基本要領」「第三.処置」の3部からなり、さらに「付属書」「参考資料」が添付されている(開拓総局 1940)。具体的な政策実施方針を定めた「基本要領」の内容は、以下の4点にまとめられる。1. 日満両政府の責任分担を明確にするとともに、日満間の連携を維持、強化するとした。

日本国内での業務は日本政府が、満洲国内での業務は満洲国政府が統轄する。移民入植地の行政経済機構は「原住民トノ共存共栄的関連ヲ考慮シ」満洲国制度下に融合させる(開拓総局 1940,12?13)。行政機構は街村制によるものとし、経済機構は協同組合を結成させる。また、指導員の身分は従来の日本政府嘱託から日満両政府の嘱託に改め、移民の訓練は日本国内での訓練を日本政府が、従来は満洲拓植公社が管理していた満洲国内での訓練を満洲国政府が統括するとした。満洲開拓青年義勇隊については、日満両国の開拓関係機関合作による訓練本部を新京に置き,各機関の協議によりこれを運営するとした。さらに日満両政府がそれぞれ開拓関係行政機構の整備拡充を行って関係機関との連絡に適切な処置をなすとともに、両政府間直接の協議連絡を緊密にするとした。


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