満洲民族
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なかの言語も概ね他の諸語において顕に[14]。語彙ではとくに、モンゴル語漢語からの借用語も多い[65]。清朝にあっては第一公用語の地位にあった[66]。満洲語は、その話者が北京はじめ中国全土に居住するようになり、言語分布は拡大したが、漢人に比較すると人口の絶対数がきわめて少なかったので、満洲族の文化は漢化し、言語も漢語を話すようになり、満洲語はしだいに使わなくなっていった[67][68][69]。満洲語使用は、すでに清朝中期の隆盛期には衰微の兆候を示していたという[67]。現代、満洲語は中国東北部のごく一部でしか話されなくなっている[65][注釈 32]。なお、乾隆年間中期にイリ地方へ移住したシベ族の末裔は今日でも満洲語を話している[65][68]。これをシベ語といい、シベ語(シベ文字)の新聞書籍も発行されている[65]

満洲文語の資料には、『満文老?』をはじめとする記録類[71]、満洲・モンゴル・漢・チベットウイグル5族の言語を対照させた『御製五体清文鑑(中国語版)』などの辞書類、『大蔵経』、漢文古典その他大量の翻訳文献などがある[68][注釈 33]。また、文語資料にはあたらないが17世紀の日本越前国の船乗りが漂流した際の記録、『韃靼漂流記(異国物語)』には当時の満洲語が仮名文字で収録されている[68]。満洲語についての情報の大半はこの種の文書記録から得られたものであり、この文語の基盤となった南部方言の直接的な記録は乏しい。満洲語について近代的な記録が行われ始めた19世紀には、満洲語はほとんど少数の知識人や官吏に依って用いられる人工的に整えられた形体となっており、西洋人による構造や文法についての記録が高い一貫性を持つ一方で、発音についての記録はしばしば混乱している[72]


満洲文字に先立つ女真文字については、金石文の発見や辞書に収録されたにおける[73]。完顔希尹(中国語版)や完顔葉魯(耶魯)らによって1119年に創成された女真大字は表意文字、1138年に金の第3代皇帝熙宗が制定し、1145年に公布したと記される女真小字は表音文字であった[74]。大字のみで表記、小字のみで表記、という三様の表記法があった[74]女真語は満洲語に近い言語だとみられる[68]。両者は姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、女真語は広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる[73]

満洲文字は、左から縦書きで右に改行する[66]。ホンタイジが、ギョルチャ氏の満洲旗人に命じて改良させた[66][75][注釈 34]新疆ウイグル自治区に在住するシベ族は、満洲文字を改良したシベ文字を使用している[66]
宗教水浴びをする三仙女(『満洲実録』)

自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった[76]。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある[76]。星神とは、具体的には北斗七星であり、満洲語では「??????
?????, nadan usiha, ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する[76]。記録によれば、満洲族の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は占卜や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである[76]。満洲族に近い、同じツングース系のホジェン族[注釈 35]もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する[76]。満洲族の七星神は、のちに祭礼が固定的なものに整備されていき、それにともない人格神化していった[76]瀋陽故宮(旧、奉天行宮)の神杆(神鳥の止まり木)

満洲族は鳥・鵲(カササギ)・イヌを崇拝した[77]。鳥・鵲の崇拝は満洲族のシャーマニズム信仰の古層をなしており、長白山で水浴びをしていた天女(三仙女の末娘)フォクレン(仏庫倫)が神鵲がくわえてきた朱果を食して感精し、満洲の始祖のブクリヨンション(中国語版)(布庫里雍順、愛新覚羅氏)を産んだという伝説がのこる[77]。『満洲実録』でも鳥や鵲に関するいくつかの伝承が記述されており、同著の満文本では満洲人の後裔はカササギを祖としたことを伝えている[77]。また、ヘトゥアラに抑留されていた朝鮮人李民煥の著述した『建州聞見録』では、建州女真がイヌを自分たちの祖先と見なしていて、イヌを殺したり食べたり、イヌ皮を使用することを決して許さないという習俗をもっていたことにふれている[77]。こうした習俗は、清朝を通じて変わらなかった[77]

満洲族は元来、自身を地上に降臨した天上界に住む神々の子孫であると信じ、自身の氏神を中心として団結した[7]神、人面身の神、大鳥神(人面怪鳥の神)、突忽到瑪法(海獣の形象から変化した神)、鹿神などは、満洲の各氏族における保護神や祖神などとして崇められた[77]。彼らは森林地帯での狩猟や採集に際して、しばしば各種の猛獣の襲撃に直面し、予期せぬ災禍や不幸に見舞われ、あるいは漁撈に際しても数々の危険や事故に遭遇し、自分たちの無力さを悟ることも多かったと考えられる[77]。そこで鳥獣を神格化して祭祀し、その勇気や能力を借りて災厄を逃れようと願ったところから動物崇拝が始まったのだろうと推測される[77]。ここにおいてシャーマンが憑依して、たとえば、虎の各種の動作を真似て病人に災いをなす妖魔を威嚇することにより、病気が治癒されるものと信じられた[77]。鹿神は、ウジャラ(烏扎拉)氏が鹿の角を採取する際に祭った神であったが、ここではシャーマンが帽子の上に一対の鹿の角を挿し、鹿神に憑依するものとされた[77]

女真族(満洲族)は、仏教、とりわけモンゴル族の影響でチベット仏教になじんでいき、漢民族との交流を通じて彼らの民間信仰、とくに道教からの影響も受けていった[5][78]。1616年の後金建国の際、ヌルハチはヘトゥアラ城東の山上に仏教寺院、玉皇廟、十王殿などを建設して、これを「七大廟」と称した[78]関帝関羽)、仏祖(釈迦)、観世音菩薩はしだいにシャーマニズムの神祇の列に加えられ、清朝宮廷や一般満洲族から尊崇されるようになり、満洲古来の神々よりも篤い崇拝を受けた[78]

1626年、ホンタイジが即位した直後の儀礼では、最後に支配領域における弓の達人らに弓を射させる「射柳の儀式」が執行されたが、これは金時代の女真がシャーマニズムの拝天の祭儀に付属して行った儀式を継承したものであった[79]


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