満洲民族
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満洲族は元来、自身を地上に降臨した天上界に住む神々の子孫であると信じ、自身の氏神を中心として団結した[7]神、人面身の神、大鳥神(人面怪鳥の神)、突忽到瑪法(海獣の形象から変化した神)、鹿神などは、満洲の各氏族における保護神や祖神などとして崇められた[77]。彼らは森林地帯での狩猟や採集に際して、しばしば各種の猛獣の襲撃に直面し、予期せぬ災禍や不幸に見舞われ、あるいは漁撈に際しても数々の危険や事故に遭遇し、自分たちの無力さを悟ることも多かったと考えられる[77]。そこで鳥獣を神格化して祭祀し、その勇気や能力を借りて災厄を逃れようと願ったところから動物崇拝が始まったのだろうと推測される[77]。ここにおいてシャーマンが憑依して、たとえば、虎の各種の動作を真似て病人に災いをなす妖魔を威嚇することにより、病気が治癒されるものと信じられた[77]。鹿神は、ウジャラ(烏扎拉)氏が鹿の角を採取する際に祭った神であったが、ここではシャーマンが帽子の上に一対の鹿の角を挿し、鹿神に憑依するものとされた[77]

女真族(満洲族)は、仏教、とりわけモンゴル族の影響でチベット仏教になじんでいき、漢民族との交流を通じて彼らの民間信仰、とくに道教からの影響も受けていった[5][78]。1616年の後金建国の際、ヌルハチはヘトゥアラ城東の山上に仏教寺院、玉皇廟、十王殿などを建設して、これを「七大廟」と称した[78]関帝関羽)、仏祖(釈迦)、観世音菩薩はしだいにシャーマニズムの神祇の列に加えられ、清朝宮廷や一般満洲族から尊崇されるようになり、満洲古来の神々よりも篤い崇拝を受けた[78]

1626年、ホンタイジが即位した直後の儀礼では、最後に支配領域における弓の達人らに弓を射させる「射柳の儀式」が執行されたが、これは金時代の女真がシャーマニズムの拝天の祭儀に付属して行った儀式を継承したものであった[79]。北京の紫禁城内廷の坤寧宮、盛京(現在の瀋陽)の奉天行宮の清寧宮は、ともに、中国皇帝を兼ねる満洲族のハーンが、シャーマンの祭祀を行った祭神殿として独特の設計が施されており、その入り口の南には神杆(しんかん)、すなわち神鳥の止まり木が建てられていた[79]。坤寧宮では元旦行礼などの特別な祭祀のほか、常祭である朝・夕の祭りが毎日行われ、ブタが生贄として供えられた[79]。また、神々の前で「薩満太々(サマンタイタイ)」と称される巫女が満洲語の神歌を唱え、跳ね回ったという[79]。シャーマニズムの伝統は、満洲族が中国内地の支配的地位に立ってからも温存されたのであった。
神話・伝承

『満文老?』天命6年(1621年)条や満文『内国史院?』天聡8年(1634年)条には、当時の女真族(満洲族)が日食月食という天文現象を「天界の犬が太陽を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や朝鮮民族チュルク系民族、また、パレオアジア語系とみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる[80]

また、これに似た説話として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つのモチーフをともなう説話も伝わっている[80]。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話(東明王朱蒙伝説)にも共通し、オロチョン族ナナイ族などツングース系民族の説話にもみられる[80][注釈 36]
歌舞と武術金昆・程志道・福隆安「氷嬉図」(『清代宮廷生活』より 厳寒期の北京でスケートをしながら矢を射る技を披露する八旗軍人

満洲族は、歌舞に長けた民族として知られており、そこには鮮やかな民族的個性と独特の品格がみられる[81]。満洲族のなかで最もさかんに行われたのは、莽勢舞(莽式舞)と称する歌舞で、別名を「空斉」といった[81]。莽勢舞は、集団のなかの1人が歌い、他の衆は「空斉」を以てこれに和し、正月や祝祭日に男女が相対して舞うというものであった[81]。この舞には「九折十八式」と称される、漁撈・狩猟・騎射などの生活を反映した9つの舞のかたち、身体部位を用いた18の所作があったと伝わっている[81]。清朝の北京入城後は宮廷に取り入れられて大規模化し、慶隆舞へと発展した[81]。慶隆舞は、揚列舞(武舞)と喜起舞(文舞)の二部で構成された[81]

習武に関しては、満洲族は古来騎馬・射猟を得意とし、清朝建国後はこれを満洲の根本とみなして狩猟や軍事に活用するのみならず、競技化した[82]。ヌルハチは、その趣味が弓の試合であり、すぐれた射手と技を競って負けなかったという弓の名手であったし、ホンタイジも飛翔する一羽の鳥をただの一矢で射落とすほどの腕前であった[82]。競技種目としては歩射と騎射があり、弓術は、近代に至るまで満洲民族の伝統として受け継がれた[82]

スケートも満洲族が得意とするスポーツで、これまた初期の生業や軍事活動と結びついていた[82]。冬季における酷寒の東北部では河川湖沼が凍結して天然のスケートリンクとなった[82]。スケートはスポーツであると同時に軍事訓練でもあり、乾隆帝はこれを「国俗」と称した[82]。氷上で行われた競技としては他に、王などのリーダーが侍衛を率いて鞠(ボール)を蹴りながら氷上を走り、次いで諸貴族・官員の妻女たちが氷上で競争し、先に終点に着いたものを勝ちとする「?行頭」などがあった[82]

満洲人たちはまた、相撲(角觝)をことのほか愛好し、それは満洲語で「布庫(プク)」と称された[82]。すでに入関前の宮廷で弓試合や宴会の際に、相撲の実演が催されている[82]。ホンタイジの時代にモンゴルとの関係が深まると、朝貢に訪れたモンゴル族の力士たちはしばしば宮廷内で技を披露し、満洲族の力士と勝負した[82]。幼くして帝位に就き、権臣オボイの専横に苦しんだ康熙帝は若年の際、相撲好きと称して旗人より強壮な少年たちを選抜して密かに親衛隊をつくり、日々これを鍛錬させて、機が熟したときにオボイを逮捕、その腹心たちを一網打尽にして親政を開始したという逸話をもっている[35][82]
満洲族出身の著名人



溥儀(愛新覚羅氏)

溥傑(愛新覚羅氏)

慧生(愛新覚羅氏)

顕g(愛新覚羅氏)

婉容 - ゴブロ氏(郭布羅氏)出身。

ヘシェン - 清朝の政治家。ニョフル氏(鈕?禄氏)出身

西太后 - 同治帝の母。イェヘナラ氏(葉赫那拉氏)出身

崇厚 - 清朝の官僚。ワンギャ氏(完顔氏)出身

川島芳子(顯?) - アイシンギョロ氏(愛新覚羅氏)出身


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