満洲民族
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しかし、18世紀に入ると東北部(満洲)に自発的に移住する漢人の数が急増したため、1740年には移住禁止令を出して満洲人の生活を保護しようとした[17]

1735年から1795年まで治世60年におよぶ第6代乾隆帝は、45年にわたる外征を「十全武功」と称し、晩年好んで用いた玉璽にも「十全老人」の文字を彫らせた[42]1750年代の後半には、清は乾隆帝の外征により中国東北部、中国内地、モンゴル高原東トルキスタンを含むテンシャン山脈の南北両側、チベットより構成される最大版図を築いた[43]1759年にはテンシャンの南北両側地域を「新彊」と命名した[43]。現代の中国の骨格は、乾隆帝によってかたちづくられたということができる[42]
列強の進出と満洲族「滅満興漢」および「満洲国」も参照清朝末期の満洲族の武人たち満洲国(1932-1945)の地図

1840年以降、清がアヘン戦争アロー戦争に敗北し、大規模な農民反乱である太平天国の乱が起こって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、1858年にはアイグン条約を結んで、清領とされてきた外満洲のうちに割譲し、両国の共同管理することとなった。さらに2年後の1860年には北京条約によって、この地も正式にロシア領となった[44][注釈 19]

一方、皇帝の故郷の満洲は1860年までは保護され、漢人の移住はある程度制限されていたが、特普欽らの献策を容れて開放策に転じ、漢人農民の移住が急増した。中国史ではこれを「闖関東」と呼んでいる[注釈 20]。漢人人口はさらに急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。また、イギリス領事館が営口に置かれるなど外国人勢力が満洲の南方からも入り込んで、満洲人の故郷は大きな変貌を遂げた[17]。アヘン戦争の敗北後、清国は海禁政策を放棄して欧米列強に門戸を開いたが、日清戦争(1894-1895)や北清事変(1900)の敗北などによって深刻な半植民地状態に陥った。1911年辛亥革命の際には「滅満興漢」がスローガンとして掲げられた[注釈 21]

1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった宣統帝溥儀を執政(のちに皇帝)として満洲国が建てられた[17][45][46][注釈 22]。満洲国は・満・の五民族による「五族協和」「王道楽土」を理念としており[45]、国名に「満洲」を含むものの、満洲人がこの国を自分たちの民族国家として意識していたわけではない。しかし、建国後の満洲族には帝政期成運動を起こすなど、この国に民族の復権を期待する傾向も一部ではみられた。満洲国の建国宣言は、溥儀を担いだ旧清朝帝政派の人びとの主導によってなされ、それを関東軍が承認したものだが、そこには「礼教(儒教とほぼ同じだが、道徳秩序や祭礼面を前面に立てる)」を国教とすることが謳われていた[47]1934年の皇帝即位式において溥儀は、満洲族の民族衣装である竜袍の着用を、関東軍は「五族協和」の見地からこれを許されず、満洲国軍大総帥服を着用するよう求められた[48]。溥儀はこれに従ったが、それに先立って祖霊に報告の開催を主張し、関東軍はその開催と着用を認めた[48]。なお、満洲国における筆頭公用語は中国語(漢語)であり、第二公用語は日本語であった[49]。ただし、筆頭公用語は中国語とも漢語(シナ語)とも称されず「満洲語」もしくは「満語」と称され[注釈 23]、満洲国の住人は満族・漢族とわず「満人」と称された[49]
現代の満族「民族識別工作」も参照

第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、愛新覚羅溥儀を「思想改造」したのち満洲族代表として中国人民政治協商会議全国委員に任命し[48]、「民族識別工作」を行って国内の少数民族を一定の権利を有する民族として公認していった。清代の旗人たちは、主にマンジュたちにより構成された満洲八旗のほか、蒙古八旗漢軍八旗など3つの集団から構成されていたが、この「民族識別工作」では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを「蒙古族」や「漢族」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分した[注釈 24]

満洲八旗に属していた錫伯(シベ)族達斡爾(ダウール)族などについては、それぞれ56の民族の一員である独自の民族として識別されている。

なお、満洲族は、清代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。1990年の人口調査資料によれば満洲族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1人に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41パーセントで、全国22.21パーセント、漢族21.53パーセントよりも遥かに低く、中国国内の各民族の中で非識字率(半非識字率を含む)が最も低い[51]
生業と文化・習俗
伝統的生業

さて依然中国にいたるまではいうにとってが主な生業。農耕はムギアワヒエキビなど穀類を中心とする天水農業であった[20]。狩猟はテンキツネミンクリスなど毛皮目的であり、中華料理の食材となるキクラゲキノコ類、松の実、薬用として知られる朝鮮人参(オタネニンジン)の採集などもおこなわれた[19][20][52]。清朝の軍事組織として知られる八旗も、その編成方法は元来、満洲族の狩猟生活からあみだされた巻狩の制を応用したものだったといわれる[7][24]

明代後期の遼東地方で当時高額で取引された二大商品といえば、クロテンの毛皮と山岳地帯に自生する薬用人参であった[52][注釈 25]。こうした産物は現地で消費されず、奥地からリレー式に遼陽にもたらされ、さらに北京方面へと送られて、穀物織物金属製品といった中国内地の商品と交換される[20]。ヌルハチはこうした特産品のルートを掌握して交易の利益を得ていた氏族長のひとりであった[52]

ヌルハチの故地に関して言えば、その地は山がちで大小の河川が縦横に流れ、斜面や点在する平地ではコーリャンなどが栽培されていたが、農地としては必ずしも恵まれていなかった[53]


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