満洲民族
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こうした産物は現地で消費されず、奥地からリレー式に遼陽にもたらされ、さらに北京方面へと送られて、穀物織物金属製品といった中国内地の商品と交換される[20]。ヌルハチはこうした特産品のルートを掌握して交易の利益を得ていた氏族長のひとりであった[52]

ヌルハチの故地に関して言えば、その地は山がちで大小の河川が縦横に流れ、斜面や点在する平地ではコーリャンなどが栽培されていたが、農地としては必ずしも恵まれていなかった[53]。したがって、西方に隣接する肥沃で広大な遼東平野の農地は、彼にすれば垂涎の的であった[53]。ヌルハチは遼東に進出するや女真人(満洲人)をこの地に続々と移住させ、農耕国家として発展する基礎を固めた[53]

またブタ養がなされており、産地としても有名であった[注釈 26]。ただし、こうした生業のみで十分な自給自足ができるというほどの経済的基盤を有していたわけではなかった[19][注釈 27]。なお、吉林省吉林市の鷹屯[注釈 28]は、鷹狩に従事する八旗の兵士が代々居住し、鷹匠を数多く輩出した地であり、古い狩猟文化を今日に伝えている[54]
習俗と生活文化「辮髪」も参照辮髪にカットする巡回理髪者(19世紀、トーマス・アロム(英語版)画)

漢民族に見られる纏足の習慣は満洲族女性にはなかった。女性の服飾は、上述したチーパオまたはベストを着用することが多く[54]、男性は伝統的に筒袖チョッキズボンという服飾を好んだ[55]

対して、満洲族男性のヘアスタイルであった[56]。1644年の北京入城直後、清の第3代皇帝フリン(順治帝)の摂政ドルゴンは、清に服属するか逆らうかを区別するため、漢族に対しても「薙髪令」を発令した[56][57]。この際は、中華思想の根強い抵抗のため強制できなかった[57][注釈 29]。しかし、1645年、「薙髪令」を再発令し、辮髪を強制した[56][58]。このとき、辮髪を拒否する者には死刑を以て臨んだ[56][57]儒教の伝統的な考えでは、毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、タブーであったため、抵抗する者も多かったが、清朝は辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証した[57]。清朝は、漢族が辮髪を死ぬほど嫌い抜いていることを承知したうえで、あえて「薙髪令」を再発令したのであり、ある意味、清朝の敵味方の識別のためには、これ以上効果的な策はなかった[57]

やがて、19世紀には辮髪が完全に普及し、僧侶道士と女性のほかはことごとく辮髪するようになり[56]、中国のものと見なされるようになった。
氏族制と社会文化伝統衣装を着た現代の満族男性(2012年)

満洲族「哈喇(????,)」または「ムクン(muk?n)」と呼ばれる父系氏族とした[59]。ロシアのセルゲイ・シロコゴロフ(英語版)はかつて、ハラが基本的な血縁組織であり、その後、血縁組織の発展にともないガルガン(garugan)、ムクンの2層が生じたと論じ、中国の莫東寅はこれを継承して、ハラ(部族)、ガルガン(胞族)、ムクン(氏族)の三層構造を唱えた[59]。しかし、シロコゴルフ・莫東寅の説は、今西春秋が指摘しているように何ら史料的根拠を有しない[59]。これに対し、三田村泰助は、詳細な検討の結果、ムクンをハラから派生した地域関係を基とする血族集団とみなす見解を示した[59]。ムクンがハラより発生したとする説は、現在、多くの専門家の支持する定説となっている[59]。ムクンは、金代女真族の「謀克」を原義としているとみられ、一義的には「族」、二義的には「氏」を表しており、一方、ハラには「姓」の字があてられる[59]。清代にあっては、ハラはもはや実体をともなった血縁組織とはいえず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存したのだった[59]

明・清両王朝の皇宮となった紫禁城では、明が内廷(後宮)と外廷の間に塀を設け、その区別が厳格であったのに対し、清朝ではその塀を撤去して両者の区別は緩やかなものとなり、また、内廷においても男子禁制が明ほどには厳しくなかった[60]。このことは、漢族の家族制と満洲族の氏族制の相違が反映しているものととらえることができる[60][注釈 30]
満洲族の姓氏

1個のハラは複数のムクンを包含するが、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、ハラ組織は元来、地域的同一性を有していた[59]。女真族(満洲民族)のハラの由来は、次の2種に大別できる[59]
地名や河川名を姓とするもの … グワルギャ(瓜爾佳(中国語版))、トゥンギャ(?佳)、ドンゴ(董鄂)、マギャ(馬佳)など。

古来のトーテムを姓とするもの … ニョフル(鈕?禄(中国語版)、原義は「オオカミ」)、サクダ(薩克達、原義は「イノシシ」)、ニマチャ(尼馬察、原義は「」)、ショムル(舒穆禄)など[59]

ハラは、当初は族外婚の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった[59]。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったもので、その過程も示していた[61]。たとえば、ギョロ(覚羅)というハラは、『氏族通譜』によれば、イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)、シュシュギョロ(舒舒覚羅)、シリンギョロ(西林覚羅)、トゥンギャンギョロ(通顔覚羅)、アヤンギョロ(阿顔覚羅)、フルンギョロ(呼倫覚羅)、アハギョロ(阿哈覚羅)、チャラギョロ(察喇覚羅)という8つのムクンに分かれ、さらにそれぞれが多数の分枝を持っていた[61]。ハラからムクンが生じた理由のひとつは族外婚規制の機能緩和であって、すでに明代女真族において婚姻禁忌が破られていたことにある[61]。すなわち、同一ハラ内の異ムクンとの通婚を可としたのである[61]。太祖ヌルハチはアイシンギョロ(愛新覚羅)氏出身であったが、その妻にはイルゲンギョロ氏2名、シリンギョロ氏1名、ギャムフギョロ(嘉穆瑚覚羅)1名、計4人の異ムクンの妻女が含まれていた[61]

満洲民族の姓氏は本来、アイシンギョロ(愛新覚羅、???????
?????, aisin gioro)、イェヘナラ(葉赫那拉、????
????, yehe nara)、ヒタラ(喜塔臘、???????, hitara) 等にみられるように満洲語に基づいたものであった。しかし、現代満族の多くは、漢民族の姓氏になぞらえて主に一文字の「漢姓」を用いている。これは、清末期の辛亥革命の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、中華人民共和国成立後の文化大革命など、中国当局の弾圧を避けるための一方策であったと考えられる。しかしながら、その場合であっても、

アイシンギョロ(愛新覚羅) → 「」「」または「」に

グワルギャ(瓜爾佳(中国語版)、?????????, g?walgiya) → 「」に

イェヘナラ(葉赫那拉) → 「」または「那(中国語版)」に


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