とりわけながら中国本土に相対的に近い建州女直からスクスフ部の有力な氏族だった英傑で拡大した[17]。ヌルハチの支配する領域は、一方では「マンジュ国」(?????
?????, manju gurun, 満洲国)と称されるようになったが、マンジュ国がさらに海西女真四部(マンジュ政権からは「フルン四部」)、野人女真四部(同じく「東海四部」)を統合していく過程で、「マンジュ」が広く女真全体の総称として用いられるようになった[8]。なお、建州・海西・野人の各女真には、それぞれ内部的に何らかの結合関係があったと考えられがちだが、実際はそうではなかった[8]。建州女真のなかの五部もまた、それぞれ別個に建てられた5つの国のような様相を呈しており、それを越えてのまとまりはなかった[8]。「マンジュ国」は、その意味で複合部族国家であった[8]。
金の滅亡後、女真文字は失われ、女真族はモンゴル文や漢文に翻訳して文書をつくるようになっていたが、「マンジュ国」の勢威が拡大し、民族統合を進めるなかで民族的自覚は高まり、その長であるヌルハチは自分たちの文書を外国語に翻訳して記述している状況を不自然だと感じるようになっていた[23]。ヌルハチは、学者エルデニ・バクシ(中国語版)に命じて文字をつくらせた[23]。1599年のこととされている[23]。すなわち、広大な地域で話されるようになった「マンジュ国」の言語を表記するため、アラム文字をルーツにするモンゴル文字(縦書きのウイグル文字を応用したもの)を改良させて無圏点満洲文字をつくり、当時の女真語(満洲語)を表記することとしたのである[23]。さらに、無圏点文字では区別することのできないha(??)とga(??)、de(????)とte (???)などを識別するため、ヌルハチの子のホンタイジは、17世紀にダハイ・バクシに有圏点満洲文字をつくらせた[23][注釈 9]。満洲文字の資料は有圏点満洲文字で書かれたものが圧倒的に多い。
ヌルハチは、中国のほぼ全域を領有して、[17]これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたり歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例であった[19]。後金はヌルハチ没後も発展し、子息ホンタイジは内モンゴルを併合し、李氏朝鮮を属国となして国号を「清」に改め、また、民族名も「女真」を民族名として用いることを禁じ、マンジュと改め、それに「満洲」の字を当てた[5][25][注釈 10]。
ジュシェン(?????, ju?en, 女真) 1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)まで。
マンジュ(?????, manju, 満洲) 1636年(崇徳に改元)以降。ホンタイジによる改称[注釈 11]。
清朝の中国支配「清#政治」も参照
女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸族を満洲(人)と統合し、国号を「大清」に改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“?(さんずい)”が付いているのは、五行の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる[29][注釈 12]。ホンタイジは、1636年、清の国号を称したとき、満、漢、モンゴルの三勢力に推戴され、多民族国家の君主としてハーンであると同時に皇帝でもあるということを、内外に宣言した[31]。多民族王朝となった清のもと、満洲人は、八旗と称する8グループに編成され、王朝を支える支配層を構成する主要民族のひとつとなり、軍人・官僚を輩出した。雍和宮(北京)昭泰門に掲げられた扁額。左からモンゴル文、チベット文、漢文、満洲文の四体合璧となっている。
1644年、清は山海関を越えて万里の長城以南に進出し、李自成の乱で滅亡した明にかわって北京に入城した。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた[32]。なお、漂着により朝鮮に抑留されていたヘンドリック・ハメルによれば、満洲人支配下の17世紀初期の朝鮮では、朝鮮国王は国内では絶対的権力をもっているものの、後継者を決める際は満洲人のハーンの同意を得なければならず、また、満洲人の勅使やウリャンカイ(野人女真)は、年に3回朝鮮から貢物を徴収し、朝鮮高官は満洲人に怯えきっていたという[33]。
歴代の清朝皇帝は、同時に、満洲やモンゴルなど北方民族社会の長としてのハーンでもあった[31][34]。その意味で清朝は、非漢族のハンが中国皇帝でもあるという「夷」と「華」が同居する二重性を有していたが[31]、日本の東洋史学者石橋崇雄は、さらにこれに「旗=満(東北部での満・蒙・漢)」の体系を加えた「三重の帝国」であったとしている[34]。首都北京は中国内地の華北に、副都盛京(現、瀋陽)は中国東北部に、行在所「避暑山荘」は熱河(現、承徳)にそれぞれ位置しており、いずれも清朝のハン(大清皇帝)が政治の実務を執り行った場所という点では共通しているが、実際はこの3か所の性格はまったく異質であった[34]。清朝の皇帝は、北京にいるときは中華世界の天子として君臨していたが、長城外に位置する熱河の離宮(「避暑山荘」)では、内陸アジア世界におけるモンゴル族の首長、ボグド=セチェン=ハンとして行動し、熱河は、モンゴル族やチベット族のみならず、ウイグルの王公、チュルク系民族の首長(ベグ)、朝鮮(李朝)および大南(阮朝)・タイ王国(アユタヤ王朝、トンブリー王朝、チャクリー王朝)・ビルマ(コンバウン王朝)といった東南アジアにおける朝貢国の使節、さらにイギリスの使節までも朝覲する非漢族世界「藩」の中心であった[34][注釈 13]。