満洲民族
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首都北京は中国内地の華北に、副都盛京(現、瀋陽)は中国東北部に、行在所「避暑山荘」は熱河(現、承徳)にそれぞれ位置しており、いずれも清朝のハン(大清皇帝)が政治の実務を執り行った場所という点では共通しているが、実際はこの3か所の性格はまったく異質であった[34]。清朝の皇帝は、北京にいるときは中華世界の天子として君臨していたが、長城外に位置する熱河の離宮(「避暑山荘」)では、内陸アジア世界におけるモンゴル族の首長、ボグド=セチェン=ハンとして行動し、熱河は、モンゴル族やチベット族のみならず、ウイグルの王公、チュルク系民族の首長(ベグ)、朝鮮李朝)および大南阮朝)・タイ王国アユタヤ王朝トンブリー王朝チャクリー王朝)・ビルマコンバウン王朝)といった東南アジアにおける朝貢国の使節、さらにイギリスの使節までも朝覲する非漢族世界「藩」の中心であった[34][注釈 13]。一方、瀋陽の奉天行宮(瀋陽故宮)東郭には右翼王および左翼王の執務室と八旗それぞれの建造物をともなう、旗人の部族長会議を反映した十王亭がある[34][注釈 14]

清朝期の建築物は、複数言語で表記される「合璧形式」の額が掲げられることを一大特徴としているが、ここでは満・漢合璧であるだけでなく、満・漢・蒙の合璧、それにチベットを加えた四体合璧、さらにウイグルを加えた五体完璧もある[34]。清朝の記録はまた、『満洲実録(中国語版)』をはじめとする実録類が原則として満文本・漢文本・蒙古文本の三種類によって編纂されており、満・漢・蒙の各語を担当する翻訳官がおり、そのための科挙もあった[34]。これにチベットやウイグルなどの諸語も含めた官撰・私撰の辞書が多く作られたのも清朝文化の特徴となっている[34]。大清帝国は、満・漢・蒙の三重構造を基本としており、瀋陽・北京・熱河にあった3政務所はそれを象徴するものというとらえ方ができるのである[34]

中国を扱った映画などにみられる辮髪両把頭、チーパオ(チャイナドレス)は、本来は満洲人の習俗であったものが清代に漢人の社会に持ち込まれたものである[36][注釈 15]。明との戦争に際しては占領地の男性住民に辮髪を命じ、明の滅亡は満洲族の髪型と服装を漢族にも強制して漢人の服飾を身に付けることを禁止し、漢民族の伝統文化を抑圧する態度をとった[36][注釈 16]。これを「剃髪易服」(髪を剃り、服を替えるの意)という。一方、科挙の実施や中央に内閣六部、地方に総督巡撫を設置して軍事・政治を管轄させるなど、明朝の行政制度を存続させて強硬政策と懐柔政策を併用した[37]。また、指導理念として朱子学をはじめとする儒家の思想も取り入れていた[37] 乾隆帝時代の大臣であるマチャン
盛期の清王朝と満洲人「清露国境紛争」も参照史上最大版図をきずいた乾隆帝の肖像(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、1736年)乾隆帝に仕えた満洲族衛兵フルチャ・バトゥル占音保(ジャンインボー) 紫禁城の紫光閣に掲げられていた武功臣の肖像画(作者不明、1760年)。満洲語と漢文で彼に対する賛が書かれている。彼には名誉称号であるバトゥルが与えられている。

17世紀コサック(カザク)によるシベリアへの東進が著しいロシア・ツァーリ国と清とが国境をめぐって対立した(清露国境紛争[38]1650年代初頭、エロフェイ・ハバロフ率いるコサックの一派はアムール川に臨む清側の拠点ヤクサ(雅克薩)を奪い、同地をアルバジンと改めて東方進出への拠点とした[38]。ロシア人はアムール川を下りながら先住民からヤサク(毛皮税)を徴収した[38]1652年、現在のハバロフスク周辺とみられるアチャンスクで清露の戦闘が起こった。1658年には朝鮮国軍も動員した清国側が勝利し、アムール川流域からロシア人勢力を駆逐したが、1665年、シベリアに追放されていたポーランド貴族のニキフォール・チェルノゴフスキー(英語版)がイリムスク(英語版)のヴォイヴォダ(軍司令官)を殺害して逃走、ヤクサ国(英語版)を建国して先住民から毛皮税を徴収した。清露国境紛争は再燃し、1683年、アルバジン戦争が勃発、戦況は清側優勢で推移し、1689年、清露両国はネルチンスク条約を結んで講和した[38]。その結果、外満洲を含めた満洲全体が清の領土と確定した[39][注釈 17]。なお、この時のロシア人捕虜は「ニル」に編成され?黄旗満洲に配属された[注釈 18]

清の歴代の皇帝は、漢人が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めていた。しかし、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも漢語が話されるようになり、習俗もしだいに漢化していった。清代中期の北京の満洲人によって編まれた「子弟書」という俗曲集には、漢語と満洲語を交ぜてできている曲があり、当時の満洲人の言語状況の一端がかいまみえる[41]

清朝によって優遇された満洲族は清朝発展にともない中国本土に移住する者が増加した一方、満洲人の故地である満洲では人口が減り、荒廃したため、1653年から1668年まで遼東招民開墾令を出して漢人の移住を勧めた[17]。しかし、18世紀に入ると東北部(満洲)に自発的に移住する漢人の数が急増したため、1740年には移住禁止令を出して満洲人の生活を保護しようとした[17]

1735年から1795年まで治世60年におよぶ第6代乾隆帝は、45年にわたる外征を「十全武功」と称し、晩年好んで用いた玉璽にも「十全老人」の文字を彫らせた[42]1750年代の後半には、清は乾隆帝の外征により中国東北部、中国内地、モンゴル高原東トルキスタンを含むテンシャン山脈の南北両側、チベットより構成される最大版図を築いた[43]1759年にはテンシャンの南北両側地域を「新彊」と命名した[43]。現代の中国の骨格は、乾隆帝によってかたちづくられたということができる[42]
列強の進出と満洲族「滅満興漢」および「満洲国」も参照清朝末期の満洲族の武人たち満洲国(1932-1945)の地図

1840年以降、清がアヘン戦争アロー戦争に敗北し、大規模な農民反乱である太平天国の乱が起こって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、1858年にはアイグン条約を結んで、清領とされてきた外満洲のうちに割譲し、両国の共同管理することとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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