ヌルハチは、中国のほぼ全域を領有して、[17]これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたり歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例であった[19]。後金はヌルハチ没後も発展し、子息ホンタイジは内モンゴルを併合し、李氏朝鮮を属国となして国号を「清」に改め、また、民族名も「女真」を民族名として用いることを禁じ、マンジュと改め、それに「満洲」の字を当てた[5][25][注釈 10]。
ジュシェン(?????, ju?en, 女真) 1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)まで。
マンジュ(?????, manju, 満洲) 1636年(崇徳に改元)以降。ホンタイジによる改称[注釈 11]。
清朝の中国支配「清#政治」も参照
女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸族を満洲(人)と統合し、国号を「大清」に改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“?(さんずい)”が付いているのは、五行の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる[29][注釈 12]。ホンタイジは、1636年、清の国号を称したとき、満、漢、モンゴルの三勢力に推戴され、多民族国家の君主としてハーンであると同時に皇帝でもあるということを、内外に宣言した[31]。多民族王朝となった清のもと、満洲人は、八旗と称する8グループに編成され、王朝を支える支配層を構成する主要民族のひとつとなり、軍人・官僚を輩出した。雍和宮(北京)昭泰門に掲げられた扁額。左からモンゴル文、チベット文、漢文、満洲文の四体合璧となっている。
1644年、清は山海関を越えて万里の長城以南に進出し、李自成の乱で滅亡した明にかわって北京に入城した。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた[32]。なお、漂着により朝鮮に抑留されていたヘンドリック・ハメルによれば、満洲人支配下の17世紀初期の朝鮮では、朝鮮国王は国内では絶対的権力をもっているものの、後継者を決める際は満洲人のハーンの同意を得なければならず、また、満洲人の勅使やウリャンカイ(野人女真)は、年に3回朝鮮から貢物を徴収し、朝鮮高官は満洲人に怯えきっていたという[33]。
歴代の清朝皇帝は、同時に、満洲やモンゴルなど北方民族社会の長としてのハーンでもあった[31][34]。その意味で清朝は、非漢族のハンが中国皇帝でもあるという「夷」と「華」が同居する二重性を有していたが[31]、日本の東洋史学者石橋崇雄は、さらにこれに「旗=満(東北部での満・蒙・漢)」の体系を加えた「三重の帝国」であったとしている[34]。首都北京は中国内地の華北に、副都盛京(現、瀋陽)は中国東北部に、行在所「避暑山荘」は熱河(現、承徳)にそれぞれ位置しており、いずれも清朝のハン(大清皇帝)が政治の実務を執り行った場所という点では共通しているが、実際はこの3か所の性格はまったく異質であった[34]。清朝の皇帝は、北京にいるときは中華世界の天子として君臨していたが、長城外に位置する熱河の離宮(「避暑山荘」)では、内陸アジア世界におけるモンゴル族の首長、ボグド=セチェン=ハンとして行動し、熱河は、モンゴル族やチベット族のみならず、ウイグルの王公、チュルク系民族の首長(ベグ)、朝鮮(李朝)および大南(阮朝)・タイ王国(アユタヤ王朝、トンブリー王朝、チャクリー王朝)・ビルマ(コンバウン王朝)といった東南アジアにおける朝貢国の使節、さらにイギリスの使節までも朝覲する非漢族世界「藩」の中心であった[34][注釈 13]。一方、瀋陽の奉天行宮(瀋陽故宮)東郭には右翼王および左翼王の執務室と八旗それぞれの建造物をともなう、旗人の部族長会議を反映した十王亭がある[34][注釈 14]。
清朝期の建築物は、複数言語で表記される「合璧形式」の額が掲げられることを一大特徴としているが、ここでは満・漢合璧であるだけでなく、満・漢・蒙の合璧、それにチベットを加えた四体合璧、さらにウイグルを加えた五体完璧もある[34]。清朝の記録はまた、『満洲実録(中国語版)』をはじめとする実録類が原則として満文本・漢文本・蒙古文本の三種類によって編纂されており、満・漢・蒙の各語を担当する翻訳官がおり、そのための科挙もあった[34]。これにチベットやウイグルなどの諸語も含めた官撰・私撰の辞書が多く作られたのも清朝文化の特徴となっている[34]。大清帝国は、満・漢・蒙の三重構造を基本としており、瀋陽・北京・熱河にあった3政務所はそれを象徴するものというとらえ方ができるのである[34]。
中国を扱った映画などにみられる辮髪や両把頭、チーパオ(チャイナドレス)は、本来は満洲人の習俗であったものが清代に漢人の社会に持ち込まれたものである[36][注釈 15]。明との戦争に際しては占領地の男性住民に辮髪を命じ、明の滅亡は満洲族の髪型と服装を漢族にも強制して漢人の服飾を身に付けることを禁止し、漢民族の伝統文化を抑圧する態度をとった[36][注釈 16]。これを「剃髪易服」(髪を剃り、服を替えるの意)という。一方、科挙の実施や中央に内閣、六部、地方に総督、巡撫を設置して軍事・政治を管轄させるなど、明朝の行政制度を存続させて強硬政策と懐柔政策を併用した[37]。また、指導理念として朱子学をはじめとする儒家の思想も取り入れていた[37]。 乾隆帝時代の大臣であるマチャン