満洲民族
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^ 女真文字による六字真言(六字大明呪)である。
^ 遼代の女真族のなかでもさほど有力とはいえない完顔部が金王朝を樹立させるにいたった原因は、砂金を産する河川流域を支配地に収めたことによると考えられる[15]
^ 現在、ロシア連邦の沿海州に住み、狩猟を主な生業としてきた少数民族ウデヘは、このうちの野人女直の末裔と考えられる[22]
^ 「バクシ」とは、書記官の意であるとも[24]、学者・博士の意であるともいわれる。
^ 1634年、後金軍はモンゴルの一大拠点のフフホトを占領し、ドルゴンらを派遣してリンダン・ハーンの息子を捜索させた[25]1635年、ドルゴンはモンゴル帝国最後の君主となったエジェイ・ハーンを降伏させ、彼をともなって都の瀋陽に帰還した[26]。エジェイは、「制誥之宝」と刻まれた大元伝国の璽をたずさえ、ホンタイジにこれを献上した[26]。元朝の皇帝権を象徴する印璽がホンタイジの手に入ったということは、彼が全中国の支配権を元から継承したことを意味していた[26]
^ これにより「満洲」の名が定着するが、東方世界を支配するとされる仏である文殊菩薩と満洲の語を結びつける説明については、当時のチベット仏教の指導者の発言を乾隆帝が利用したところから生じた俗説だという見解もある[9]。満州語の史書『満文原?』はヌルハチによる国家建設を「漢人の国(ニカン=グルン)から東のかた日の浮かぶ海(日本海)に至るまでの、高麗国(ソルホ=グルン)以北、モンゴル国(モンゴ=グルン)以南のジュシェン語の国(グルン)をみな討ち従え尽した」と記すように女真人は自分たちの世界を言語によって周囲から区別される「ジュシェン国(女真国)」というまとまりとして理解していた[27]。ホンタイジは「われらがくにたみ(グルン)の名は元来マンジュ、ハダ・ウラ・イェヘ・ホイファであるぞ。それを理解しない者がジュシェンという。...これからはいずれの者もわれらの本来のマンジュという名で呼べ。ジュシェンと呼んだときは罪とする。」「くにたみの名をマンジュと言う。旗の諸王に千束させた属下(ジュシェン)を、その王の族下(ジュシェン)という。」(『満文原?』)という勅令を下し、単なる金国の後継に留まらない新たな自意識を示した[28]
^ 満州人(族)は当時東北アジアに住んでいた様々な集団の複合・統合を経て形成されたものである。「南方ツングースを中心とする満洲族は女真族の末裔を母体とし、蒙古族、朝鮮族、錫伯族、ダウール(達斡爾)族を吸収し、長期の雑居を経て新しい共同体を形成、今日見られる独特の民族誌的複合を形成したものである」(畑中)[30]
^ 1793年初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニーはイギリス王ジョージ3世の派遣した乾隆帝の80歳を祝う使節団として熱河に赴き、三跪九叩頭の礼を拒否した(のちに清側が妥協して英国流に膝をつき皇帝の手に接吻することで事態を収拾した)ことで知られる[34]
^ 清朝の皇帝が皇帝であるためには、満洲人、モンゴル人、漢人の支配権を確立しなければならなかった[35]。モンゴル人に対しては大元伝国の玉璽を有して最後のハーンからその権利を譲られ、漢人に対しては大明の帝位を継承したとしてその支配権を主張できたのであるが、実のところ、肝心の満洲人に対しては本来独裁の権限はなく、部族長会議の議長にすぎない存在であり、当初は皇帝自身がその部族長会議で軍事・外交のリーダーとして選挙で選ばれた存在だった[35]
^ チーパオ(旗袍)は本来、清朝旗人社会の婦人のうち、冬の綿入れの形を普遍化したものであるが、現在のようなかたちで統一・普及するのは、中華民国成立以降のことである[36]。清朝では、支配者である旗人と一般漢人とは厳格に区別されていたため、漢人女性がチーパオを着用することは認められていなかった[36]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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