満洲国軍
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後に韓国大統領になった朴正煕は、国民学校訓導であった23歳当時に、資格年齢が16歳以上19歳以下である満洲国軍官学校の願書を提出し、2度資格不足で受験できなかったが、3度目には、志願書とともに「日本人として恥ぢざるだけの精神と氣魄とを以て一死御奉公の堅い決心でございます」[23]などと記した血書を提出したため、特別に日系枠の採用試験の受験が許可され、合格・任官している[24][25][26][27]

地理的な近さから軍官学校生徒には朝鮮人が少なくなかった。彼らの多くは第二次世界大戦後に創設された韓国軍に入隊し、日本陸軍出身者と共に韓国軍の基幹となる。また大統領となった朴正煕や国会議長・国務総理などを歴任した丁一権など、政治家として活躍した人物もいる。

軍官学校出身者の中には、既に中国共産党の情報員である呂殿元を中心に満洲からの日本の勢力の排除と主権回復を目指す秘密結社「東三省主権領土恢復会」を結成する者もいた。結社に参加した卒業生は、全員前線ではなく江上軍に配属されたが、彼らは江上軍の将兵を感化したため、江上軍は終戦直前に日本人将校を殺害して解散した[28]
軍医学校

また、当時の満洲では医師の養成機関が満洲医科大学のみで、軍医の不足が著しかったため、満洲国軍医学校も設立されている。これは日本の陸軍軍医学校とは違い、中等教育修了者を入学させて医学教育を施し、4年後に軍医少尉に任官させるものであり、内地における医学専門学校に近似するものであった。この建学思想は第二次世界大戦後の防衛医科大学校にも引き継がれている。
太平洋戦争開始後

1941年(康徳8年)12月の太平洋戦争大東亜戦争)勃発後、関東軍は続々と南方に引き抜かれ弱体化していった。それに反比例して、満洲国軍の規模は拡大していった。1944年(康徳11年)には、鉄道警護隊が編入されて鉄道警護軍に改称された。

1945年(康徳12年)4月には、軍事部顧問による蒙古軍以外の騎兵隊を歩兵に改め、31個の工兵隊と17個の自動車隊を新設する、機関銃・大砲などの重火器を関東軍に引き渡す、通信権を剥奪するといった改革案が提出されたが、満洲国軍を本格的に関東軍の補助戦力に位置づけるものだった。6月には、軍事部大臣?士廉から、各軍管区を関東軍の各方面軍の指揮下に置く命令が出された[28]。解散直前の段階で、満洲国軍の総兵力は「満洲国陸軍指導要綱」の6万人を2倍以上超える15万人にまで膨れ上がっていた[28]
解散

1945年(康徳12年)8月9日、日ソ中立条約を破棄した赤軍(ソ連軍)が対日参戦すると、満洲国軍も関東軍とともに満洲国の防衛に従事することになったが、満洲国軍の士気は低く、脱走や反乱が相次いだ。第四軍管区は7月に将兵を日本側の傘下に置き、4,000人が哈爾浜で戦車壕を構築していたが、8月15日玉音放送に伴い、司令官の李文竜ら将兵が自発的に武装解除してソ連軍に投降した。第十軍管区は、興安嶺に移動してソ連軍の進行を食い止めるよう命じられたが、指揮官の郭文林中将と参謀たちが話し合って、8月10日に新泥河でソ連軍に投降することにした。すると、11日朝に部隊にいた日本人将兵と軍属が「なぜかは分からないが」発砲してきたため、反撃して射殺した。第十軍管区は12日午前10時にソ連軍に投降した[28]。江上軍は、江上軍の司令部が緊急会議を行っている間に武装蜂起を起こし、日本人将兵を殺害、8月16日に「東北国民第一軍」に改称して解散した[28]。親日的と見られていた興安軍官学校生徒隊も、日系軍官を殺害して逃亡した。

ソ連対日参戦の時点で、満洲国軍は事実上解体状態に陥っていった。8月11日に満洲国政府が新京から通化に移動したため、軍事部次長の真井鶴吉中将を総指揮官とした前線指揮所が残存部隊を率いて、機密文書の焼却と新京東南部の防衛を行った。14日の夜に前線指揮所も通化に移動する予定だったが、翌15日正午に重大放送があるので待機するよう命令があったため新京に留まった。その日の夜、近衛兵である禁衛隊のうち、樵銘遠が率いる部隊が日本人将校を射殺するという事件が起きた。樵銘遠が率いる部隊は新京を脱出した後、16日に新京に戻って「長春警備司令部」を名乗り、無断で布告を出して治安維持を行った。8月15日の玉音放送以降は、新京市内で抵抗を続ける日本軍と満洲国軍の間で銃撃戦が勃発し、兵士の中には徽章を外したり軍服を脱ぎ捨てる者もいた[28]

1945年(康徳12年)8月18日日本の降伏の3日後)に皇帝溥儀が退位を宣言し、満洲国が解散したことで、満洲国軍も同月20日に正式に解散された。満洲国軍の要人の多くは、19日に新京に到着したソ連軍空挺部隊の捕虜となった後、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監された。構成員はソ連撤退後に国共内戦が発生した際に、多くが人民解放軍に編入され、一部は国民党軍にも編入された。
国軍としての実態

多くの民族で構成され、拡充が進められた満洲国軍ではあったが、事実上関東軍の支配下にあった。日本との共同防衛のために用語の日本との統一が図られ、1940年(康徳7年)から号令の全部が日本語になり、命令・指示もできるだけ日本語で行うことが推進された[29]。兵器の名も日本語で呼んだ[29]。公文書も日本語で、一部に満洲語(中国語)を併用した[29]

こうした実態に不満を持つ軍人が多く、離反者は後を絶たなかった。1936年(康徳3年)1月の金廠溝事件や、ノモンハン事件での石蘭支隊歩兵第14団第1営による反乱事件が起こっている。1945年8月、第二次世界大戦末期にソ連軍が侵攻してくると反乱や命令拒否、無断離隊(逃亡)する将兵やソ連軍に投降する者が相次いだ。

一方で、朝鮮を統治した日本の影響下にあり「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」だった[30]満洲国軍出身者が韓国軍の基幹を構成し、政治的にも影響力を行使した事を問題視する声も以前より存在している。2005年8月29日反民族特別法によって民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典名簿3090人のなかに満洲国軍将校の勤務歴のある朝鮮人が親日派としてリストアップされた。

白善Y(朝鮮人):1941年(康徳8年)奉天軍官学校卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国陸軍参謀総長、韓国陸軍で最初の大将となる。

朴正煕(朝鮮人):1940年(康徳7年)4月に新京の陸軍軍官学校に入学(2期生)、1942年(康徳9年)に首席卒業。1942年(昭和17年)10月に日本の陸軍士官学校(57期)に派遣され、1944年(昭和19年)4月に卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国大統領となる。

戦役

満洲国軍が参戦した戦役

1933年(大同2年):熱河作戦

1935年(康徳2年) - 1940年(康徳7年):対ソ連・モンゴル国境紛争

1935年(康徳2年):哈爾哈廟事件

1935年(康徳2年) - 1936年(康徳3年):オラホドガ事件

1936年(康徳3年):タウラン事件

1937年(康徳4年):乾岔子島事件

1939年(康徳6年):ノモンハン事件


1937年(康徳4年) - 1945年(康徳12年):日中戦争

1941年(康徳8年) - 1945年(康徳12年):太平洋戦争

1945年(康徳12年):ソ連対日参戦

軍装詳細は「軍服 (満洲国)」を参照
軍旗詳細は「満洲国の国旗#軍旗」を参照

?軍旗および江防艦隊(海軍)の軍艦旗

皇帝旗

大臣旗

海軍上将旗

海軍中将旗

海軍少将旗

海軍代将旗


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