満洲国軍
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1934年(康徳元年)11月の江防艦隊令(康徳元年11月24日軍令第8号)[20]により正式に満洲国の江防艦隊が発足した。軍事顧問として満洲駐在の日本海軍である駐満海軍部が支援していたが、その後、日本海軍は江防艦隊から手を引き、海辺警察隊(後に海上警察隊へ改称)の支援に回ったため、1939年(康徳6年)2月の陸海軍條例中改正ノ件(康徳6年2月17日軍令第2号)[21]により、江上軍と名を改めて陸軍の一部隊となった。但し、海軍ノ軍令ヲ援用スルノ件(康徳6年2月17日軍令第1号)[21]により、陸軍の本務及び法令に抵触しない条項に限り、海軍の軍令は江上軍に関して一律に援用された。

このため、実質的な海上兵力は海辺警察隊が担っており、独自の航空隊も存在した。主力艦船は「海威」級で、日本海軍の駆逐艦「」が引き渡されたものである。この海辺警察隊は領海警備・密輸取締りなど沿岸警備隊的な組織であるが、終始日本海軍が支援しており、士官・技術者・航空隊パイロットは日本海軍出身の日本人が多かった。このように、海辺警察隊は沿岸警備隊というよりは海軍としての性格が強かった。

こうした状況の原因は、黄海以上に黒龍江等のソ連方面の河川が生命線と考えられていたこと、指導・支援の立場にあった関東軍駐満海軍部の利害関係の対立があったこと等といわれる。
軍備拡大期(1935年頃)

満洲国はその最初の5年間(日中戦争開始まで)は国家としての体制作りの時期であり、満洲国軍についても随時増強が進められていた。
海軍兵力の補充

1934年(康徳元年)9月 - 日本製の順天級砲艦「順天」「養民」を配備。

1935年(康徳2年)9月 - 日本製の定辺級砲艦「定辺」「親仁」を配備。
詳細は「江防艦隊」を参照
陸軍の組織改編

当初の軍編成がそれまでの軍閥のテリトリーそのままであったこともあり、1934年(康徳元年)7月の陸海軍條例中改正ノ件(康徳元年7月26日軍令第6号)[22]により、満洲国の行政区画に沿って陸軍の再編成を実施した。

第一軍管区(兵数:12,321人)、第一軍管区司令官(陸軍上将:于?山

第二軍管区(兵数:13,185人)、第二軍管区司令官(陸軍上将:吉興

第三軍管区(兵数:13,938人)、第三軍管区司令官(陸軍中将:張文鑄

第四軍管区(兵数:17,827人)、第四軍管区司令官(陸軍上将:于?澂、兼北満鉄路護路軍総司令)

第五軍管区(兵数:09,294人)、第五軍管区司令官(陸軍上将:張海鵬

興安東警備軍(兵数:929人)

興安西警備軍(兵数:858人)

興安南警備軍(兵数:1,052人)

興安北警備軍(兵数:656人)

江防艦隊(兵数:719人)

飛行隊の創設

1937年(康徳4年)に飛行隊を創設。詳細は「飛行隊 (満洲国軍)」を参照
日中戦争開始後(1937年以降)

日中戦争が全面戦争になった後、日本陸軍は関東軍将兵を続々と支那派遣軍へ異動させ、中国の戦場(この場合は山海関以南の戦場)に投入した。このため、従来のように「関東軍を主軸とした国防」構想から満洲国軍は「自力での国防」に方針を転換していった。
国兵法制定(1940年)

一般的にいう「徴兵制」の施行である。国内の20歳から23歳の男子を3年間軍務につかせて軍事訓練を施し、補充工兵、堡塁の構築、あるいは地方警察の補助等を行わせた。毎年春に20万人を招集し、軍務不適応とみなされた者は土木工事等3年間の勤労奉仕をさせた。
軍官学校

1939年(康徳6年)には、新京特別市に陸軍軍官学校が設立され、将校養成を担った。満系生徒のほか、日系生徒(ここでは内地人の他に朝鮮人台湾人も含まれる)も入学した。第1期入学生徒中で日系生徒は172名にも上る。

朝鮮人の受験生に対しても優遇措置が取られていた。後に韓国大統領になった朴正煕は、国民学校訓導であった23歳当時に、資格年齢が16歳以上19歳以下である満洲国軍官学校の願書を提出し、2度資格不足で受験できなかったが、3度目には、志願書とともに「日本人として恥ぢざるだけの精神と氣魄とを以て一死御奉公の堅い決心でございます」[23]などと記した血書を提出したため、特別に日系枠の採用試験の受験が許可され、合格・任官している[24][25][26][27]

地理的な近さから軍官学校生徒には朝鮮人が少なくなかった。彼らの多くは第二次世界大戦後に創設された韓国軍に入隊し、日本陸軍出身者と共に韓国軍の基幹となる。また大統領となった朴正煕や国会議長・国務総理などを歴任した丁一権など、政治家として活躍した人物もいる。

軍官学校出身者の中には、既に中国共産党の情報員である呂殿元を中心に満洲からの日本の勢力の排除と主権回復を目指す秘密結社「東三省主権領土恢復会」を結成する者もいた。結社に参加した卒業生は、全員前線ではなく江上軍に配属されたが、彼らは江上軍の将兵を感化したため、江上軍は終戦直前に日本人将校を殺害して解散した[28]
軍医学校

また、当時の満洲では医師の養成機関が満洲医科大学のみで、軍医の不足が著しかったため、満洲国軍医学校も設立されている。これは日本の陸軍軍医学校とは違い、中等教育修了者を入学させて医学教育を施し、4年後に軍医少尉に任官させるものであり、内地における医学専門学校に近似するものであった。この建学思想は第二次世界大戦後の防衛医科大学校にも引き継がれている。
太平洋戦争開始後

1941年(康徳8年)12月の太平洋戦争大東亜戦争)勃発後、関東軍は続々と南方に引き抜かれ弱体化していった。それに反比例して、満洲国軍の規模は拡大していった。1944年(康徳11年)には、鉄道警護隊が編入されて鉄道警護軍に改称された。

1945年(康徳12年)4月には、軍事部顧問による蒙古軍以外の騎兵隊を歩兵に改め、31個の工兵隊と17個の自動車隊を新設する、機関銃・大砲などの重火器を関東軍に引き渡す、通信権を剥奪するといった改革案が提出されたが、満洲国軍を本格的に関東軍の補助戦力に位置づけるものだった。6月には、軍事部大臣?士廉から、各軍管区を関東軍の各方面軍の指揮下に置く命令が出された[28]。解散直前の段階で、満洲国軍の総兵力は「満洲国陸軍指導要綱」の6万人を2倍以上超える15万人にまで膨れ上がっていた[28]
解散

1945年(康徳12年)8月9日、日ソ中立条約を破棄した赤軍(ソ連軍)が対日参戦すると、満洲国軍も関東軍とともに満洲国の防衛に従事することになったが、満洲国軍の士気は低く、脱走や反乱が相次いだ。第四軍管区は7月に将兵を日本側の傘下に置き、4,000人が哈爾浜で戦車壕を構築していたが、8月15日玉音放送に伴い、司令官の李文竜ら将兵が自発的に武装解除してソ連軍に投降した。第十軍管区は、興安嶺に移動してソ連軍の進行を食い止めるよう命じられたが、指揮官の郭文林中将と参謀たちが話し合って、8月10日に新泥河でソ連軍に投降することにした。すると、11日朝に部隊にいた日本人将兵と軍属が「なぜかは分からないが」発砲してきたため、反撃して射殺した。第十軍管区は12日午前10時にソ連軍に投降した[28]。江上軍は、江上軍の司令部が緊急会議を行っている間に武装蜂起を起こし、日本人将兵を殺害、8月16日に「東北国民第一軍」に改称して解散した[28]。親日的と見られていた興安軍官学校生徒隊も、日系軍官を殺害して逃亡した。

ソ連対日参戦の時点で、満洲国軍は事実上解体状態に陥っていった。8月11日に満洲国政府が新京から通化に移動したため、軍事部次長の真井鶴吉中将を総指揮官とした前線指揮所が残存部隊を率いて、機密文書の焼却と新京東南部の防衛を行った。14日の夜に前線指揮所も通化に移動する予定だったが、翌15日正午に重大放送があるので待機するよう命令があったため新京に留まった。その日の夜、近衛兵である禁衛隊のうち、樵銘遠が率いる部隊が日本人将校を射殺するという事件が起きた。樵銘遠が率いる部隊は新京を脱出した後、16日に新京に戻って「長春警備司令部」を名乗り、無断で布告を出して治安維持を行った。8月15日の玉音放送以降は、新京市内で抵抗を続ける日本軍と満洲国軍の間で銃撃戦が勃発し、兵士の中には徽章を外したり軍服を脱ぎ捨てる者もいた[28]

1945年(康徳12年)8月18日日本の降伏の3日後)に皇帝溥儀が退位を宣言し、満洲国が解散したことで、満洲国軍も同月20日に正式に解散された。満洲国軍の要人の多くは、19日に新京に到着したソ連軍空挺部隊の捕虜となった後、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監された。構成員はソ連撤退後に国共内戦が発生した際に、多くが人民解放軍に編入され、一部は国民党軍にも編入された。


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